人生につまづきながら生き方や働き方を模索していくブログ

どうにも社会人として会社に馴染めないとか、生きるのがちょっと疲れちゃってたりとか、生き方とか働き方に疑問を持ってたりとか、なんかそんな事とかそうじゃない事とかをのんびり書いていくブログ。

1日に判断することが多すぎると脳は酷使され疲労も蓄積する

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どうも皆様こんばんは。
一日に判断する回数が多すぎて疲れているかたつむりです。

 

仕事から帰ってきてとにかくぼーっとしたい!
そういう感情になっているときは、やっぱり仕事で疲れている証拠です。

 

体力的に疲れているときは体を休めたいですし、頭脳的に疲れているときはとにかくぼーっとしたくなってしまうものですよね。
どっちも疲れているときはとにかくダラダラしていたい。
そんな感じなのではないでしょうか?

 

頭脳プレイを要求される仕事

私はぼーっとしたいと思うことが多いので、やっぱり頭を使っているのだと思います。
考えること、答えを導き出すこと、判断すること。
仕事量にもよりますが「一日のやることリスト作成、チームの段取り、自分の段取り、自分の作業、周囲からの質疑対応、電話対応、記憶と回想からの指示出し、進捗確認と今後の予定の思案」などなど、様々な問題が降ってかかります。
へたをすると自分の作業をしている以上に周りの対応で疲れ切ってしまうこともあります。


もっとみんな自分で考えてよ!!!と、言いたくなりますが、考えても答えが出なかったか対応するのが嫌だったから私のところに持ってくるのでしょう。
だって、なんとかしてしまいますもの。この仕事なら。私。
「よっ!パートの鏡!!」と自分で自分を褒めてあげたい。。。。。
私を時給850円で雇えるなんて幸せな会社だな!!ほんと(怒

 

流行りのフレーズを使わせて頂くなら「まだパート従業員で消耗してるの?」ってやつです。
してますよ、してますとも。
自分を強く持てない(自立心が)弱い人間ですもの。
(独立したいのに出来ないよ。副業はおこずかいレベルですよ。怖がりの小心者で口ばっかりですよ。ちくしょう。)

 

そして判断しなければならないことは仕事だけに留まりません。
人間関係に関しても判断しないといけないこととが出てくることもあります。
言っていいこと、悪いこと。
自分の言動と他人の言動。

 

プライベートでも・・・あれや、これや。。。
やっぱり多い。

 

でも一番多いの仕事のことでの判断かな?
自分の場合は。

 

 

人間が一日に判断をする回数は何回?

「人間が一日に判断する回数は何回?」などとネットで検索すると、正確な回数なのかどうなのか分かりませんが、4万回とも6万回とも10万回とも書かれたサイトが出てきます。


正直なところ、何万回だったしてもそんな数値めちゃくちゃ多すぎて五十歩百歩です。
到底記憶できる回数ではありません。

 

この回数の中には意識しないでも行なえている判断が多く含まれている回数だと思います。
無意識下の判断というものですね。
この判断は特に疲れるものでもありません。ストレスにもならないことでしょう。

 

そうではなく、記憶に残っている判断。
こういう判断はエネルギーを使っています。
ストレスも感じていると思います。
判断をすればするほど酷使され、疲労も蓄積されていきます。
例え「仕事が出来る自分」を感じていて「自信を持てている」という状態になり得ていたとしても、必要以上の判断はその後の疲労を招きます。
仕事が終わると「もぬけの殻」になってしまっていることでしょう。

 

 

言い方は悪いけれども「バカは幸せ」だと思う

疲れやすい私の脳は、これらのことによりより一層疲れます。
頑張りすぎてしまって疲れます。

 

「分からない」ことは「調べる」か「考える」か「上に聞くか相談」して答えを出そうともがきます。
結果、答えが出てきます。

 

そういうことが出来ない人たちはある意味幸せだなと思います。
人を頼って生きれるんですもの。
「分からない」から「教えて」って言えば済むんですもの。
「後は宜しく。分かったら教えてね。」っていう感じです。もっと優しく言ってきますけれどね。

 

自分も言いたい。
「分からないから後はよろしく」って。
ほどほどに頼られるのは嬉しいけれども、過剰に頼られるのは嫌だ。
だけど、もう自分から動くことがクセになってしまっている。
その方が仕事が回るから。

 

責任を放棄できる人たちは幸せだと思う。
自分もバカになりたいんだよ。

 

自分が頭良いとは思っていないよ。
大学も出ていないし、勉強は出来る方ではない。
なんていうかさ、ニュアンスの問題なんだけれどもさ、もっと都合よく生きたいんだよ。

それなりには頑張るけれども、必要以上に頑張らさせないでほしい。
人間とは、酷だ。
自己主張が強い人間が、自己主張の弱い人間を支配する形になってしまうんだから。

 

だから、「バカで自己主張が強い」は強者の形の1つだと思う。
生き残る術の1つだと思う。

 

 

脳をリフレッシュさせるには

判断回数が多くて疲れ切ってしまっているとき、冒頭にも書いたけれども「ぼーっとしたい」という感じになるのが答え
脳は考えることをやめたいと言っている。
だからもう「ぼーっとしちゃえばいい」
許されるなら寝てしまおう。一番手っ取り早い。

 

もしくは脳を使わないことをしてみてもいいかもしれない。
よく言われているけれど、勉強のストレスを発散するには運動がいいよっていうアレ。
体を動かしてみると脳はリフレッシュするらしい。

 

分かってはいるんだけれどなかなか体は動かせないんだけれどね。
だって横になりたくなってしまうんだもの。
私はそういうタイプなんだよね、きっと。
無理に動くと余計に疲れてしまうんだ。

 

だから方向性としては2つ。
1つは脳を休めること。ぼーっとするか寝ること。
もう1つは体を動かすこと。

 

 

判断が多い仕事をしている人。
私にはその辛さが分かりますよ。

 

 

 

一瞬で判断する力 私が宇宙飛行士として磨いた7つのスキル

一瞬で判断する力 私が宇宙飛行士として磨いた7つのスキル

 

 

エピローグで大人になってからの物語がある作品に胸を締め付けられる(いい意味で)

ふと思ったことなんだけれど。

 

マンガとかアニメなんかで「こういう話の流れで構成されている作品は好きだなぁ」と感じるものがあります。

 

その1つが

エピローグで大人になってからの物語が描かれているもの

です。

 

メインストーリーとしては幼少期や思春期の頃で構成されています。

多くは思春期の頃の甘酸っぱい感じのものですね。

 

良いことも悪いことも経験した後のエピローグで描かれる大人になった主人公やヒロインたちのその後のお話。

 

立派な大人になったなぁとか、幸せになったなぁとか、そういう気持ちにさせてくれるエピローグは切なくなったりほっこりしたりして、いい意味で胸を締め付けられます。

 

そういう作品、好きです。

 

 

<中略> 

 

 

しかし、バッドエンドで胸を締め付けられてしまったパターンはこちら。

秒速5センチメートル

秒速5センチメートル [Blu-ray]

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主人公が報われなさ過ぎて、ものすごく切なくなります。

しかも4月の桜の散る季節。やっぱり切ない。

失恋したときに見ると間違いなく切ない。

エピローグっていう訳じゃなくて、ただの3部構成ではあるんだけれども実らない恋愛の苦しさが伝わってきます。

そして安定の絵の綺麗さ。

いかん、見たくなってきた。

 

 

 

この土日は畑仕事で体力づくり

風は少し冷たかったですが、天気も良くて心地の良い日差しをしていた週末でした。

自転車でも・・・と考えていましたが、親に畑仕事を手伝ってほしいと言われたので家庭菜園の畑の耕し作業に駆り出されました。

 

1時間鍬を持って畑を耕し、1時間は草取りをして。

というトータル2時間の畑仕事を2日間行いました。

 

早速昨日の畑仕事の筋肉痛が今日やってきました(笑

というか1時間の作業に筋肉痛になってしまう自分の体力の無さよ。

本当に困ったものです。

 

でも土日とも家に引きこもることなく、軽く体を動かすことが出来たという健康的な感じに感謝をせねばならないですね。

ちょっとでも体を動かすと、やっぱり違います。

 

気分的に、今とてもストレッチをして体を伸ばしたい感じなので、この後ゆっくり伸びをしてリラックスした時間を過ごしてみたいと思います。

 

よし、良い週末を過ごせた。

 

マックを食べたくてマックに行ったけれどやっぱりマッククオリティだった。

私は時々マック(マクドナルド)のハンバーガーを食べたくなる。

時々であっていつもではない。

しかもその時々の頻度は年に数回の時もあれば、一年間食べないこともある。

つまりそれほどマクドナルドは好きではない。

だけれども時々あのジャンキーなフードの感じを味わいたくなって無性に食べたくなることがあるのだ。

 

「マックを食べない」とか言ってしまうと高級品嗜好なのかと思われるかもしれないが、全然そんなことなくてただ単に実家暮らしなので質素なりに栄養補給が出来ているからだ。

 

さて、久々のマック欲に駆られた私。

その理由はキャンペーンの広告だ。

広告の力は絶大だった。

 

「はみだす、おいしさ。てりたま」の名のもとに

期間限定(2017年春)のNEW商品「ギガベーコンてりたま」という強そうな名前のバーガーが鎮座していた。

 

これはおいしそうだ!

と、脳が反応してしまった。

たまにはマックでも食べるかと思ってしまった。

 

久しぶりのマックだったので親兄弟分のオーダーをしに近くのマックへ1人で向かった。
(どうせ行くなら家族分オーダーしたほうがご飯が簡単に済ませられる)

 

私と弟はギガベーコンてりたまの春満開セット、両親はなんか他のセットのやつ。

チラシのクーポン券があったのでそれを使い購入した。

もちろんテイクアウトで。

 

家に持ち帰ってから中を確認してみると、明らかにドリンクの数が1つ少ない。

ん?と思ってバーガーの袋を開けて確認してみると、バーガーの数も1つ少ない。

んん?と思ってレシートを確認してみると、オーダーが1つ少ない。

どうやら個数を間違えられてしまっていたようだ。

支払金額が安いな、とは思っていたがそういうカラクリだった。

追加オーダーをしにいくことになってしまった。

その場で確認しなかった私にも不備があった。

 

ではいよいよ食べましょうか!

ギガベーコンてりたまというやつを!!

 

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なんていうか、やっぱりマックはマックだった。

確かにバーガーはボリューミーなのだけれども見た目の美しさというものがマッククオリティだった。

いつも通りの写真詐欺的な雰囲気を醸し出してくれていました。

食に対してあまり感動を味わえない私なので、今回もWow!!っていう感じにはなりませんでした。

でも食べてみた感じ普通に美味しく頂けました。

いつものマックでした。

長いベーコンがウリというだけあって、ベーコンを良いタイミングで嚙み切ることが出来ず、ずるずると引っ張り出て来てしまって、最初に全部口の中に消えていきました。

ベーコン美味しかった。

 

シャカシャカポテトのさくらえびしお。

海老の風味がちゃんと出ていました。

ですが、今日のマックのポテトはいつもよりもしんなり度合いが初めから強かったため残念な感じでした。

あと、後半塩分が強く感じすぎてリタイアしました。

(両親に残りはパスしました)

 

そしてピンク色が綺麗だったマックフィズのさくらんぼ味。

これが一番おいしかったような気がします。

山形県佐藤錦の果汁を使用した炭酸ドリンク」ですとあります。

但し果汁は1%。

飲料メーカーのよくあるやつですね。

こういうのは気分です。ソフトドリンクとはこういうものです。

大丈夫ですよ、これ私気に入りました。

とても爽やかな風味でした。

期間限定ではなくいつもあってくれたら時々買いに行くよ。って思える感じでした。

 

 

クーポンを使って730円(だったかな?50円引き)。

今日の私はちょっと家の用事で労働をしたので、結構お腹が空いていました。

もう少しボリュームがあっても大丈夫でした。

 

 

 

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  • 出版社/メーカー: マクドナルド
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他人に迎合する生き方は人生を狂わせる

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自分の中の「生きづらさ」を覚える一つとして、人に合わせ過ぎるところがある。

人に合わせすぎるということは

  • 人にいい顔をする
  • よく思われたいから何でも引き受けてしまう
  • 優しくしてしまう(間違った優しさ)
  • 気を遣い過ぎてしまう
  • 人の顔色を窺って行動するようになる

というようなことが挙げられる。

 

なぜ、「人に合わせ過ぎている」という考えに至ったのか。

それはそういう行動をした後に残る心の中の変なモヤモヤ感を感じ取ったからだ。

今までの私は、そういう気持ちすら感じないようにしていたところもあるらしい。
「人に合わせ過ぎていた」というよりも「人に対して強く出れない気弱な自分」であると思っていた。
しかし、どうもそうではないらしい。

 

確かに気弱なところもあるのだけれど、「気弱」というよりも「自分の意見が持てていないから従っているだけ」という、流されやすい生き方をしていた。

もし自分の意見を持っていれば、「私はこうしたい」「私はこう考える」という交渉が出来るはずなのだ。

でもそれが出来ない。
出来ないということは自分の意見が無い。考えがない。持てない。
私は一体どこにいるのだろうか?

 

 

それは「迎合」なのか「気を遣っている」だけなのか

 私は
「周りに気を配るのが上手い」
「人の気持ちを察知して相手に不快な思いをさせないように気を付けることが出来ている」

そういう生き方が出来ていると思っていた。
だけれどそれは、私自身の心に「疲れ」を招いていた。

出来ていたのではなく、無理をしていた。

他人の思考を「想像しすぎてしまう」のだ。当たっているとも限らないのに。
そしてそれが「生き方のクセ」になってしまっているために、止めようとすると「自分は優しくない人」だと脳が思ってしまうらしく、また、人に対しての「過剰な気遣い」をし始める。

された方も、最初はいいのかもしれないけれども、毎回それが続くと「異常な気遣い」に不信感を抱いていることだろう。

 

「さりげない気遣い」だったら「気を遣っている」だけなので相手も気兼ねなくそれを受け入れてくれるだろうし、大人として適切な対応が取れていることだろう。

しかし「過剰な気遣い」は「私はあなたのことを意識していますよ」「いつも見ていますよ」という受け手として気持ち悪がられるであろう行動になってしまうのだ。

多分ね。

そして過剰な気遣いは「相手に気に入られたい」「相手に嫌われたくない」という意思の表れでもある。

 

そして問題は「迎合」である。
「自分の意見を持つこと」が出来ないので、他人の意見に「そうだねー」って言って合わせている方がとても楽なのではあるが、自分の意見が無い為に他人の軸に振り回されやすい。

迎合を始めると表面上は仲良くなりやすいが本音で付き合うことは出来ないし、何より他人にいいように扱われれてしまう。

迎合の良いところは「最初のとっつきやすさ」だけだろう。

 

仕事を例に取ってみると

  • 「迎合する」→「気に入られる」→「仕事をなんでもやってくれると思われる」→「過剰に仕事が集中する」→「心身ともボロボロになる」
  • 「迎合する」→「気に入られる」→「仕事をなんでもやってくれると思われる」→「過剰に仕事が集中する」→「断り始める」→「ケンカになる」→「人間関係が壊れる」

というようなルートが出来、どちらも良い結果を招かない。
気を遣って相手に合わせているうちに、どんどん相手のペースに飲まれていき、気が付いたら取り返しのつかないところまで来ている。

 

 

迎合する生き方は自分の本音を殺している

 「迎合」する生き方を知らず知らずのうちに取っている場合は、もうその時点でその生き方が常態化しているので「自分の本音」を探すことがとても難しくなっていることが多い。

しかも「自分の本音」どころか、「自分の考えが何もない」状態になっていて「本音」を探すことすら出来ないでいる。

「自分がない」「自分はからっぽ」という虚無感に襲われる。
自分の本音は一体どこにあるんだろう?と深い苦しみを味わうことになる。

 

また、自分の意見を持てていてそれを相手にぶつけた時の相手からの反応もまた「恐怖」だったりする。
「恐怖」とは思っていないのかもしれないが「瞬間的にやってしまった」と思うこともあるかもしれない。

それは「相手の意見との食い違い」である。

 

自分の意見を述べた後にされる、相手の意見や批判が過剰に怖いのだ。
個体が違うのだから、意見が違うのは当然なのだけれど、批判されたり、相手の意見を受け入れられないようなことでも、「譲歩」という形の「迎合」を行ってしまう場合が多々ある。

本音を合わせた「譲歩」なら良いのだけれど、本音を殺した「譲歩」は譲歩ではない。

 

 

迎合する生き方をするようになってしまったきっかけは

迎合するようになってしまうきっかけとは一体どういうところから始まるのだろうか?

一番手っ取り早く思いつくのは「親からの躾」だろう。

悪いことをすれば怒られる、口を聞いてくれない、物置に閉じ込められる。両手を縛られる。

母親が特にこの傾向が強かった。
母も祖父にこのような躾を受けていたらしいので、伝承されている。

 

そして自分にも攻撃的な部分はあったので、こういうことをされると反抗したくなる。
物置に閉じ込められようものなら、物置を壊すくらいの勢いで中から破壊を始めたり、過剰に叱られようものなら、家の中の物に当たって癇癪を起していた。

お互いのエネルギーのぶつかり合いが激しくてエスカレートして行ってしまったのかもしれない。

他の家庭の子育てがどういうものなのかは知らないけれども、うちの親はこんな感じだった。

 

そして知らないうちに「親の顔色を窺う」ということを刷り込まれてしまう。
何が良くて何が悪いのかを感じ取るようになる。

親の機嫌をとることもしているのかもしれない。無意識で。

親にとっての「良い子」とは「なんでも言うことを聞く子」「自分から勉強をする子」。

悪い言い方をすれば「親にとっての都合のいい子」。

操り人形。

いつから、というと「いつ」という年代や日付がある訳ではないが、徐々に、知らない間にそういう人間になっていったとも考えられる。

 

もちろん、これが全てではないだろうし、これ以外にも思い当たるようなところがあれば、いずれまた書き出してみたいとも思う。

 

 

迎合すると自分も人も見失う

迎合の良いところは先にも挙げたが「最初のとっつきやすさ」だ。

何とも人当たりが良く感じられる。
本当は人見知りなのに。

誰とでも仲良くなれてしまう気がしてしまう。

 

しかしそれは本当に最初の頃だけ。
ある程度付き合いが長くなってくると、人となりが分かってくる。
そうるすと、実態が無いような空を掴むような存在で芯がないことが分かる。
あの人の本音はどこにあるのだろうか?と気味悪がられてしまう。

 

本人的にも「どう思っているのか」を本音でぶつけることが出来ない。
そもそも「何も思っていない(と感じている)」から意見がないので発することが出来ないこともある。

そしてどこまでが「迎合」で、どこまでが「協調性」なのかの境目の基準も分からない。

自分の立ち位置を見失っているのである。

 

協調性が無さ過ぎるのも日本社会ではハブられる。
「迎合」と「協調性」をはき違えているので何が正しい行動なのかが分かっていない。

 

「こういう人だ」という個性も消えているから伝わらない。
相手からも不審がられ(この不審感が個性と受けられる?)、接し方が分からなくなるらしく離れていく。
どういう人なのか分からない。つまりいてもいなくてもどっちでもいい人。
もしくは不気味で近寄りがたい人。
相手にしたくない人。

 

そういう人になってしまう。

 

もう1つ、「迎合」の弊害は「人を見抜く力」を養うことが出来ないことだ。

相手に合わせようとすることは、相手のすべてをOKだと受け入れることに他ならない。
正しいことも悪いことも全てがOKになってしまう。
自分の「正義」が曲がってしまうのだ。

そうなってくると「悪いタイプ(自分とは合わないタイプ)の人」でも正しいと受け入れることになり、振り回される。
近寄ってはいけない人にも近寄ってしまう。

疲れるよね。

疲れるんです。

もちろん、傾向の度合いによって、振り回され度合いも違ってくるのだけれども、私自信、どのくらいのレベルの迎合度合いで、どのくらい振り回されるのか客観的な位置づけで自分を見ることは出来ていない。

殊更、女性に対しての迎合度合いが酷く「変な女性に引っかかる」ことがある。そして普通の女性は寄ってこない。と、思っている。(非常に失礼な物言いかもしれないけれど)

 

 

まずは「自分がどう感じたのか」ということを積極的に感じていくこと

最近、私は気を遣うことを減らし始めている。

私が気を遣わなくても他人は勝手に行動する。過剰な気遣いは監視されているとも取られてしまうかもしれない。
必要な時だけ気を遣うことが出来ればいいのだ。
そのポイントを見極めれるかどうかが今後の課題でもある。

 

そして何より

  • 自分の意見をもつこと。
  • 相手の意見との違いを認めること。
  • その後に自分はどうしたいかを考えること。

この3つを気を付け始めるようにしている。
今はまだなかなか出来ない。意見を言い過ぎて失敗してしまうこともある。
瞬間的な反応として出来るようになるまでには時間が掛かるかもしれない。

今までは瞬間的に迎合していたのだから、そのクセのままだと迎合が続く。

一呼吸おいて考える時間を自分につくれるようにしなければならない。

 

でも、とりあえず失敗してもいい。

」「自分が」「どう感じたのか」ということを大切にして生きることをしていかなければいけない。

「他の誰かが喜んでくれる」のは良いことだけれども、「自分の意見を殺して」まで「相手を喜ばせようとする」のはただの自己犠牲だ。

自分は幸せじゃない。だから辛い。

お互いが幸せでなければいけないのだ。

 

 

 

 

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