人生につまづきながら生き方や働き方を模索していくブログ

どうにも社会人として会社に馴染めないとか、生きるのがちょっと疲れちゃってたりとか、生き方とか働き方に疑問を持ってたりとか、なんかそんな事とかそうじゃない事とかをのんびり書いていくブログ。

その世界をぶっこわしたい。しかし、変えられない。それは変えたく無い。

ただの妄想話なので、今回のお話はふわふわとしているんだけどね。

 

ある日私は
「その考え方や、そういう価値観といったその世界をぶっこわしたい。」のだと友人Aに言いました。

 

友人Aは答えます。
「壊せるわけ無いじゃん。それで世界が成り立っているんだから。みんな何かを我慢して生きているし、みんな何かに耐えながら生きているんだから。」
もっともな回答を私に告げる。

 

しかし私はこう言う。
「我慢している人もいる。耐えている人もいる。現状に違和感を覚えている人もいる。でもそれを抱えて生きていたら絶対苦しいし、我慢した先に幸せがあるとも限ら無い。幸せを感じ無いまま一生を終えることだってありえるじゃないか。我慢や忍耐だけで終わってしまう人生に意味などあるのか?」と。

 

友人Aは言う。
「それはしょうがないじゃん。その人たちにはこの世界を生き抜ける力がなかったんだよ。能力が無かったんだよ。今は生き抜くにも辛い世の中だからね、行き詰ってしまった人はもうどうしようもないんだよ。」
なんとも冷酷なことを言う。

 

私に死の宣告を告げているようなものだ。
私はもう人生行き詰った感満載で行き当たりばったりなのだ。
世の中の「普通」は私には存在してい無い。

 

私は友人に言う。
「それが言えるのは、Aが普通に生きれているからだろ?自分が生きていける世界だから変える必要がないからだろ?もし変わってしまったら自分が生きることのできる世界じゃなくなってしまうからだろ?それはつまりこの世界を変えたく無いってことに等しいよね?」と。

 

いつの時代だって、世界を変えようとするものは叩かれる。
大きく変えようとする人も、小さく変えようとする人も。
ルールや価値観は、慣れた人や合わせられる人にとっては心地の良い居場所なのだ。
万人に合うルールも無いし、価値観も無いのだから、絶対的なものなど存在しないというのに。
あたかも、そのスタンダードが絶対的であるかのように、慣れている人は信じ込んでいる。私はこの世界(価値観)に安住している。だから変えて欲しく無い、と。

しかし、変えてもらわなければ生きていけ無い人がいる。
そういう人たちにとっては、本当に住みにくい世の中なのだ。

 

デファクトスタンダード
それが当たり前のように浸透しているから、それが普通なんだとされること。

 

多様性の世の中だと言われるようにはなっているけれども、現実的には多様性は認められてい無い。スタンダードから漏れてしまっている人間にとってはどうしたって生きにくい。
スタンダードで生きている人の考え方や価値観から離れているものや、離れすぎているものは、受け入れてもらうことは難しい。

特に、このクローズマインドの世の中では。