リーボックの靴を買った私ですが、アディダスの靴も買いました。
先月のエントリーでこのような記事を書きました。
覚えていらっしゃいますでしょうか?
search-life-work.hatenablog.com
リーボックの靴のデザインが好きだし、履き心地も良かったので、新しくリーボックの靴を新調したというエントリーでした。
そろそろ、本当に今まで履いていたジグテックが限界に到達しようかというくらいの疲労感に達しました。
そして新調した「リーボック ジーポンプ フュージョン」の出番がやってき…ませんでした(え?
なんかもったいなくて使えない!!!
カッコイイし。大切に履いていきたい。
という、貧乏性が発動されてしまいました。
体を動かしたい!
という気分になったときに、さらに気分を盛り上げるために使いたい!
流石に普段使いするには勿体なさ過ぎる!!
それだけデザインが気に入ってしまっているのです。
(もう少しインソールが分厚ければ尚よかったのですが)
結局普段使い出来る靴をもう一足買わなければならない事態に陥ってしまいました。
なんという無駄遣い…。
2足目は出来るだけ安いものにしたい。
5000円以内だったらなんとか許容範囲内だということにして、新たに靴を探すことにしました。
普段使い=多少の損傷をしても精神的に苦痛の無いもの
無名ブランドの安い靴はいくつか見つけましたが、品質や履き心地などに信頼を寄せて良いものかどうか怪しいところです。
レビューを読んでいても安心できない雰囲気でした。
そして見つけたのがこちら。
[アディダス] ランニングシューズ Galaxy 3 KDV76 (17春夏) AQ6545DGH ソリッドグレー/ユーティリティブラック F16/ランニングホワイト 26.5
- 出版社/メーカー: adidas
- メディア: ウェア&シューズ
金額も予算内でしたし(この記事を書いている時は、私が買った時よりも若干安くなっていて悔しい)、オーソドックスな黒系なので、仕事で履いても一番問題なさそうです。
早速注文して届いたので、履き心地をチェック!
何より軽くて動きやすい。そんな印象を受けました。
仕事が立ち仕事で、それなりに動き回ったりするので足が蒸れたりするのですが、メッシュ素材なので蒸れを気にする必要なく仕事が出来ます。
クッション性も程よくあり、立ち仕事をしていても疲れをほとんど感じることはありません。
※ランニングシューズということですが、私は基本ランニングをしないので、ランニングをした時の使用感は不明です。
これで安心して普段使いできる靴として認定することが出来ました。
他人の目を気にしないような生き方が出来るように訓練を始めてみようと思う。
生きづらい。
その一つが「他人の目を気にしてしまう」ということ。
あなたは会社や学校で、「自分は嫌われているのではないだろうか?」と感じたことはありませんか?
私は常日頃から感じています。
自分の特性として
- 協調性がないのをフォローするために周りに同調しすぎてしまうこと。
- 自分に自身がないから、周りに気を使って優しくしすぎたり気を配ったりしてしまうこと。
- 何かちょっとでも相手からの違和感を感じてしまうと「あ、自分は相手にされていないんだな」と感じてしまうこと。
- 自分が与えた優しさは相手からは返ってこないということ。
- 被害妄想をしているときは、人を寄せ付けないオーラを出しているということ。
- 「独りだ。孤独だ。愛されていない。」と感じてしまっていること。
- 結局自分は仲間ではない。ただそこにいるだけの人なんだなと思ってしまうこと。
ものすごい寂しさと、ものすごい悔しさと、ものすごい憎しみが生まれてきます。
どうしていつも自分はこうなんだと。
どうして自分だけいつも人の輪に入れないのかと。
被害者意識だけが残ってしまいます。
そして、
- 考え方の価値観や世界観が違うから会話も長続きしないし楽しくないのではないか?
- 言葉の選び方、使い方が違うからコミュニケーションが取りづらいと思われているのではないか?
- 仕事のことだけ連絡が取りあえればそれでいいと思われているのではないか?
- 変な空気感や距離感があるから近づきにくいと思われているのではないか?
- と、その事象の理由の原因を探ることを始めてしまいます。
そしてこの理由をもとにして、相手に良く思ってもらうためにはこうしてみたら?・・・という「迎合」する方向へと向かってしまいます。
そういうことを考えれば考えるほど、脳が疲れてきて思考が鈍化してしまいます。
真っ黒い闇に包まれたような気分になってしまいます。
もし、被害妄想をし始めたらどうやって自分の中の心の平静さを取っていけばいいのだろか。
まずは「今、自分はこう考えてしまっている」と認めること。
被害妄想を始めてしまうと、そこだけに思考が集中してしまうので、一歩引きさがって「あ、自分は今妄想を始めている」と気が付いてあげるということ。
そして「今」の自分の状態を確認すること。
周りに対して変なオーラが出ていないだろうか?
口調や態度はいつも通りだっただろうか?
と、まずは見直してみます。
人間なのでもちろん日によって「変化」をしてしまうものです。
ですが被害妄想による良くない言動を取ってしまった場合少しづつ見直していこうと思うことにします。
また、もし「変なオーラ」が出てしまっていて「近寄りがたい」と思われている状況になっているとき(実際思われていた)は、逆にそれを壊そうとせず、「私は目の前の仕事だけに集中している」のだという「真面目モード」に入っていることにしておけば、周りもそっとしておいてくれるので、心の冷静さを取り戻す時間に当てればいいと思うようにします。
変なオーラが出ているときに、無理して人の輪に入って行こうとすると、より変な会話が生まれてしまう可能性があるので、あえて仲間外れを選ぶことにします。
他人に対して被害妄想してしまうということは、他人から架空の負の感情を受けていることになります。
その架空が本当だっとしても偽物だったとしても、自分にとってのダメージは大きいし、相手も場合によっては心外かもしれないですよね。
被害妄想をしてしまうのは、自分が寂しかったり、認めてもらえていなかったり、ぞんざいに扱われたと感じてしまっていたりなどの、なんらかの「満たされない感情」がそこに眠っています。
自分の気持ちを満たしてほしいのだけれども、相手はそれを与えてくれない(与えてくれるはずもない)。
返ってくるはずのない感情を、相手に求めてしまって、求めたものが与えてもらえないから落ち込む。
そんな流れがあるんじゃないだろうか、と思います。
ということは、自分の気持ちさえ満たしてあげることができれば、被害妄想をする必要もなくなるのだということ。
自分の揺るがない自信と愛情とものさしをもっていれば、周りの言動に左右されない自己が形成され「自分は自分だ」という信念のもとにありのままで行動することができる。
自分の存在を確かめるために、あえて自分から人助けをしに行かなくてもいい(過度な助言とか)。
必要なときに、適切な分だけ相手との関係を築くことができるのが、お互いにとって賢い生き方になるのだと思う。
まずは自分の心を満たすこと。
「今、孤独だ」→「真面目に仕事に取り組んでいるからすごい」
「今、辛い」→「深呼吸して、一旦辛さを受け入れよう。」
とかね。
自分で自分を否定的に扱わずに、自分で自分を肯定する気持ちの持ち方をしていくことが大切だと思うわけです。
そして、
- 助けを求められる前に助けないこと。
- 助けを求められたときに、適切に助けること。
- 自分から変に気を遣い過ぎないこと。
- 相手から良く思われようとしないこと。
必要とされてないと思ってしまう自分の思考を一度止めて、自分の目の前の仕事がやれていれば、それは必要とされていると考えること。
必要以上に「もっと必要とされたい、もっと認められていたい」と、きっとどこかで思ってしまっているので、そのレベルを下げてあげること。
とにかく被害妄想をし続けて、相手の心理を読もうとしたり勝手に想像してマイナスイメージばかりを考えていると相手のことが嫌いになるし、認めることができなくなるし、気持ち悪くなります。
そして頭がどんどん疲れていくので、やめたい。やめよう。
過剰でもなく過少でもなく、「丁度良いところ」「丁度良い距離感」。
そういう物差しが「相手に合わせて生きてきた」ことによって形成されていないから、今辛いことになっているのかもしれません。
「迎合」は身を守るために必要だったのかもしれません。
ですが、それを続けていると大人になってから「辛さ」を味わうことになってしまいます。
「気が付く」ということが大切だなと思いました。
パイ生地が何層にもなっているケーキの綺麗な食べ方を私は知らない。
今日はどうでもいい文章を書いて楽しみたいと思います。
疲れていると甘いものを食べたくなりますよね?
体が欲している!というやつです。
疲れが溜まっている時って、チョコレートとか、シュークリームとか、ケーキとかとにかくカロリーが高めの甘いものが食べたくなります。
そして私はケーキを買いました。
なんかオシャレで可愛い感じの見た目をしたケーキでした。
さて食べようとしたのですが、なんとパイ生地が層になっているタイプのアレでした。
ミルフィーユ!!
買う前に気づけよ!というか、見た目の「美味しそう!」だけで選んだのでどんなケーキであるのかというものは全く気にしておりませんでした。
どうやって食べたらいいのだろうか。
私の家ではケーキを食べる時のスタンダードはスプーンです。
フォークという選択肢は昔からありません。
皆様のご家庭はスプーン派ですか?フォーク派ですか?
スプーンを片手にミルフィーユに挑むのですが、パイ生地がスプーンを許すわけがありません。
門前払いです。
スプーンで挑み始めた私の頭の中にフォークという選択肢が出てくるはずもなく。
全くもって下品かもしれませんが、誰に見られているわけでもありませんし、自宅でのことですので、目を瞑っていただいて。。。
手で分解して食べました。
美味しかったけれど、こういうのカフェで頼んだら食べるの難しいよね。
(カフェでこんなオシャレなの頼まないけれどさ。むしろ行くの喫茶店だし)
ミルフィーユの食べ方について少し検索して調べてみました。
そうすると「倒して食べる」というのが1つの方法らしいです。
なるほど、ミルフィーユも倒してしまえばいいのか。
ショートケーキなんかでは、最後に倒れそうになってきた時、自分から倒しに行って寝かせてから食べるという方法を私は取っていますが、ミルフィーユは最初から倒してしまえば良い訳ですね。
でもスプーンはさすがに通らないと思うので、せめてフォークで攻めて行ってみたいです。
しかし、また1つ疑問が浮かんできました。
倒して分割して食べるという方法。
これは層に挟まれている味が全て同じならいいのだけれど、せっかく何層かにわかれている味が別のものだった場合。
せっかくなら口の中で溶け合うように食べてみたい!というのが消費者の希望なのではないでしょうか。
つまり、分割してしまってはその夢が叶わない。
別々にカットしておいて口の中で合わせてしまえばいいじゃん!なんていう元も子もない発想もありますが、一口でいろんな味を口の中に運びたい。
そういう希望はどうやったら叶えられるのでしょうか?
ミルフィーユがこんなに奥の深いケーキだったなんて。
むしろ今初めて気がついた私のケーキ人生とは一体。。。
(滅多にケーキを食べないということがばれてしまいますね)
毎朝本当につらい。朝が弱い。その否定的なイメージを覆す訓練でもしてみようじゃないか。
私は朝が弱い。
「起きることができない」という意味だけの「朝が弱い」ではない。
起きることだけなら携帯のアラームで起きることが出来る。
しかし、目覚めが本当に悪い。
ものすごくマイナスなイメージというか、どんよりとした気分で朝が始まる。
「キレイすっきり今日も爽快!!」なんていう日は殆どない。
大抵は「あー、気分重い。仕事だるい。動きたくない。寝ていたい」だ。
重たい体を動かしながらベッドから出て朝食に向かう。
実家暮らしの嬉しいところは、朝ごはんが準備されているところだろう。
これが一人暮らしだったならば、多分朝食は食べない。
もしくは、仕事に行きがてらコンビニで何か。。。という感じだろう。
私にとって食事というものは「愉しむもの」ではなく「ただのエネルギー補給」に過ぎないらしい。
さて、朝ごはんをのんびり食べる私。
頭はぼーっとしている。とりあえず詰め込む。でもゆっくりと。
そしてここからが私の戦いだ。
だいたい毎朝3回。
トイレに行く。
大きい方の用を足しに。
過敏性腸症候群だと自分勝手に診断しているアレである。
このブログにも何回か書いている記憶があるけれど、また書きたくなったので書いてみる。
このトレイ事情は長年の付き合いなので、ある意味仕方ないのだけれども、改善されたらきっと世界が変わる。
朝の世界が変わる。
1つの戦いから解放されるような清々しい気持ちになるはずだと思っている。
そして出勤する。
出勤すればスイッチが入るので、元気にテキパキと仕事をこなし始める。
180°性格が変わるとまでは言わないが、90°くらい性格が変わるかもしれない。
ここまでくれば通常営業なのである。
さて、朝を辛いと感じている私。
- 寝起きが最悪。目覚めも悪いし気持ちも思い。
- とにかく腸の具合が超悪い。
ダブルパンチで重苦しい。
そんな私の気持ちを救ってほしい。
いや、自分で救うしかないのだけれど。
朝はそういうものだと受け入れることから始めることにした
いやだ、いやだと思っているだけ。
今日も最悪だと感じているだけ。
その繰り返し。何年もの繰り返しの染み付いた思考の癖。
「いやだ」「この体は最悪だ」という負の感情の癖。
それが余計に朝の自分を不幸にさせている。
まずはこの思考の癖にストップをかけないといけない。
あれ?前にもこんなこと書いていたっけ?
意識は繰り返さないと忘れるからね。
忘れてしまえば出来なくなってしまうからね。
思い出して、忘れて、を繰り返して。良い癖を身につけたいものだね。
だからこう思うことから始めてみようと思う。
「朝、寝起きが悪いのは自分の”普通”のことであって”最悪”ではない」ということ。
他のサイトでの記述によると、「朝はそういう脳の状態」になっているそうだ。
だから「朝、目覚めが悪くて気分が重い」という状態なのも「ある意味普通である」ということらしい。
だから「朝、自分が寝起きが悪いことを特に落ち込んだり責めたりする必要はない」ということ。
「すっきり起きれない自分を責める必要はない」ということ。
そういう自分への許しは大切らしい。
まずはそこから。
あとは、「寝起きに良いもの」も何か探したいな。
そしたら何かスイッチ入って元気になれるとか。
欲張りすぎると出来なくなるので、小さいことから挑戦するよ。
オレンジジュースとか、レモン水とか良さそうかな??
ちなみに、過敏性腸症候群は寝起きの問題だけじゃ解決できないだろうと思うので、色々と複合的に解決されて、最後に治るものなのかもしれません。
(体力面とか自尊心とか自律心とかそういうものね)
今日の締めの言葉
明日の朝も寝起きは最悪だろうけれども、それが普通なのだと受け入れる。
自分と似たような性格の人と一緒にいて居心地が良い場合と悪い場合
生きていると自分と似たような性格の人とお知り合いになることってありますよね。
「あ、こういう時にこう感じるんだ!」っていうのが共有できたり、行動や会話のペースや内容、言葉遣いなどから滲み出てくる「自分と似ている」という感覚。
それがきっと「親密感」や「共同体感覚」に繋がるのでしょう。
「私と同じだ!」「私と似ている!」って。
だから仲良くなりやすいし、一緒にいて楽しいとか居心地がいいとか感じられるのだと思います。
しかし実は自分と同じような性格の人と一緒にいてプラスに作用する場合とマイナスに作用してしまう場合もありますよね。
よく言われる「自分の鏡」というものです。
自分の良い面はプラスに作用して、マイナスの面はマイナスに作用してしまうということです。
相乗効果で楽しさ倍増、憎さ倍増というものです。
プラスに作用する場合
自分と似たような性格の人と一緒にいた時に、良い面がうまくかみ合えばとても居心地がいいですし楽しいです。
この人とはとても仲のいい友達になれそうな気がする!とか思ってしまいます。
居心地がいいので関係を長く続けられるかもしれないという予感や、心を寄せてしまいたくなることでしょう。
考え方、感じ方、行動パターンが似ているので、ふとした瞬間の小さな楽しさがたくさん出てくると思います。
マイナスに作用する場合
これは自分自身の悪い性格の部分と、相手の悪い性格の部分がぶつかり合ってしまった時に起こります。
例を挙げてみましょう。
- 「何か」にこだわりを持っていて曲げない意見を持っている時。
- わがままで気まぐれで喜怒哀楽の変化が激しくて「切り替わり」が読み取れない時。
まるで自分の相手をしているようで、とても気まずい雰囲気が漂います。
そのこだわりのポイントが同じなら良いのですが、さすがにそこまで同じというのは相手に求めすぎですし期待しすぎです。
そこはあくまでも違う人間だという認識で考えないといけないのですが、性格が合う場合と合わない場合の両方が存在しているため、相手に対してとても複雑な感情を抱いてしまい、混乱してしまうこともあるかもしれません。
「性格が似ている」と思っていたけれども「やっぱり違っていたの?」「いやむしろ正反対?」とかまで思ってしまうこともあるでしょう。
そうなってくると”一緒に居たくない!”とさえ感じてきてしまいます。
自分のいやな部分を目の当たりにしているから見たくない!ということに近いのだと思います。
もちろん全然性格が反対だということに気がついて「合わない」場合もあるかもしれません。
ですが、「性格が似すぎていて居心地が悪いなと感じることもある」という事例も存在するなと感じました。
まぁ自分が「相手と似ている」と思っていても、相手は「私とは違う人」と思っていたとしたら、そこに感情のすれ違いが発生していてぎこちなくなったりもするんですけれどね。
人の心って難しい。
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