人生につまづきながら生き方や働き方を模索していくブログ

どうにも社会人として会社に馴染めないとか、生きるのがちょっと疲れちゃってたりとか、生き方とか働き方に疑問を持ってたりとか、なんかそんな事とかそうじゃない事とかをのんびり書いていくブログ。

35歳で独身なら1000万円くらいは普通は貯金しているはずやしな、と母にボソッとつぶやかれるのが辛い。

私も他人と自分をよく比較してしまうのだけれど、それは母親譲りなのかもしれない。

給料やボーナスの話題がテレビなどで出てくるようになると、
「誰々さんちの子は○○(給料の良い会社名)へ行っているみたいだよ」
とか
「おまえも○○(会社)へ行ったみたらどうだ?」
と、進めてくることがある。

冗談で行っているのか本気で言っているのかは分からないが、お金のことはそうとう気にしている。羨ましいのだろう。

父があまりまともに働けなかった人なので、余計にお金に固執をしている。
そして母自身が自分が不幸だと思っている。それは母の生い立ちにも深く影響がある。

きっと私にも「まともに働いて家計を助けてほしい」と思っているはずだ。
いや、思っている。

が、そこまで強く面と向かっては言ってこない。
私の抱えている事情も見てきているからだろう。

 

私の闇も根深いが、母の闇もそうとう根深い。 

 

母のそういう小さなつぶやきが私を時々苦しめる。

深い意味は無いのかもしれない。

真意まではわからないけれど。

私にとっては「お前は稼げてないからな」と言われているみたいでつらい。

そしてイライラしてくる。どうせ私は不出来なのだから仕方が無い。

自分に対してそういう言葉が出てくる。

私が考え過ぎなだけか。

あぁ、またか。

 

この先の思考は、止めておこう。

まずは、明日からの目先の仕事を頑張れば良い。
そうしよう。

 

激しく部下を叱責する上司のもとで働くことは不幸だと思う

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これは前職で見てきたお話。

 

人間だもの。
仕事でミスをした部下を責めたり叱ったり怒鳴ったりしたくなってしまうことはあると思う。
でもね。
感情をストレートに表現してただただ従業員に対して怒ったり怒鳴ったり嫌味を言ったり。
それじゃあ従業員は反省するを通り越して「もう会社に行きたくない」となってしまうと思うんだよ。


「ただ仕事さえしてくれていれば、他は別にかまわない」その人のいないところでそう言っていたのを聞いた。
きっとその上司は裏切ることも裏切られることも経験してきたのだろう。
経験上ひどい仕打ちをされたことがたくさんあったのだろう。
だからなのだろうか。 人を信用していないような発言をたくさんする。


「また間違えやがったのか」
「人のミスは俺はカバーしたくない」
「何回同じような間違いをすれば気がすむのか」
という発言が出る。
怒鳴る。嫌味を言う。
わりと日常的に険悪な空気が会社の中を流れていた。
会社の空気が乱れていた。

そういうことを率先して社長がやっていた。
そう、その上司というのは会社のトップである社長。
社長だから威張っていていい。とでも言うのだろうか?

怒鳴ったり嫌味を言うことでミスが減るのなら簡単だ。
本人が真面目にやってなかったわけではない。
真面目にやっているけれどもミスも出てしまうという感じだった。
もっと理論的な対策を取らなければならなかったはずだ。

怒鳴られて、嫌味を言われて。
それで泣いてしまった従業員もいる。
本人もミスをしてしまったことは悔しいのだ。
それをあえて追い討ちを掛けるようにまくし立てる。
反省しないタイプの人になら言うことは言わなければならない。
しかし自分で反省する&落ち込むタイプの人をさらに責め立てたらどうなるかくらい想像付くだろう。
いや、その上司は想像できないからそういうことを言ったのか。
想像よりも先に感情が優先されたから言ったのか。


ミスをしてしまったことに対しての原因と対策を立てることは大事なのでもちろんそれはやるのだけれど、伝え方や叱り方というのが感情的になりすぎていた。

また、友人の働く土木会社では殴るという行為による叱責もあったとうケースを聞いた。 完全にアウトだ。 そんな会社で働く従業員は不幸だし、とっとと辞めてしまった方がいい。

日本にある会社で、体育会系や職人気質の会社というものはどうしても激しい口調での叱責や体罰での叱責というものが風習として残っているような気がしてならない。
そしてこれはしばらくの間なくならないだろうと思う。

 

逆に私は叱るこができない。 どうしてもミスを優しく伝えるだけになってしまうので、緊張感が足りなくて舐められてしまっている感じもある。
しかし自分も人間だから間違えることがある。
そういうときに周りに助けを求めなければならないときだってある。
普段から怒鳴ったりしている人が間違えたとき 「自分だって間違えてるのに、何を偉そうに言っているんだ!」 「誰が助けてやるもんか」 「(助けてはくれるけれど)内心見下されてしまう。 」といったようなことになる。
逆に普段からお互いのミスがカバーしあえるような人間関係が出来ていれば、お互い気持ちよく仕事が出来る。 ような気がする。
責め合ったりすることも少なくなるだろうと思う。
そういうことを考えると、優しく伝えた方がいいなと思うところもあって、私は人を叱ることが苦手だ。単純に嫌われることを恐れているだけという面もあるけれど。

「叱るときには叱れる上司」というのも存在としては大切だけれど。 なんにせよ「叱り方」というのは難しいものだと感じた。

そして暴力的で攻撃的な上司を持つ部下は不幸だなと思った。

 

(記事作成:2017.02 記事調整:2018/08)

 

 

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隣の席から早い作業の音が聞こえると、焦って気が気ではない。

作業の音。 早い作業の音。
仕事のペースが早い人は、音を聞いていると分かります。
音が小さくても早い人もいるので、絶対ではないのですが、気持ちのいい早い音というのはあります。
「速さと正確さが命」と、もてはやされる仕事の現場。
そういう仕事の中ではそれができる人は重宝されます。
そして自分には出せない音でもあります。
早い仕事が出来ない人間だということは自分で理解しています。

過去記事でも少々触れたことがあります。

search-life-work.hatenablog.com

 

同じ仕事をしているのでなければ、軽快な早い仕事の音は心地のよいものなのだろうと思います。
しかし、同じ現場の同じ仕事をしているところから軽快な音が聞こえて来ると焦りと恐怖を感じてしまいます。
私は仕事が遅いと自分で信じ込んでいるからです。
コンプレックスを持っているからです。

実際のところ、ものすごく遅いわけではないでしょうし、仕事に対する理解もそれなりに出来ているはずだと思っています。
スピードが遅い!と、注意されることも叱られることもありませんでした。
それでも早い仕事の音を聞くのが怖いのです。
コンプレックスから来る「劣等感」がそこにあります。
自分は出来ない人間だという思い込み。
そしてそれが正しいのだという思い込み。
数ある会社の中では一番早く仕事が出来る人のペースが基準になる現場も多々あります。
それ以外の人は「見習ってそこを目指してね」となります。
辛い職場です。
目標を掲げるのはいいことですが、到達出来ない人にとっては何年たってもクリアできない目標です。やる気を失うことにも繋がります。
不毛でしかありません。
そして私は、追いつかれ、追い越されると戦意喪失します。
「ほらね?やっぱり。」って。

これは自分と他人を比較してしまうことで起きる現象です。
まわりが仕事が早いと、自分は出来ない人だと感じてしまうことにより起きる現象です。
結果的に焦ることになって、判断力が鈍りミスを誘発します。
人間のタイプが違うのでどうしようもないことなのですけれどね。
個人レベルの競争社会の「悪」の部分だと思っています。

しかし「競争させることで生産能力が上がる」という理論は根強いです。
どんなに優秀な人でも競争し続けると疲れは来ます。
競争をすることが楽しいという人も中にはいて、そういう人にとっては適度な競争は仕事への情熱に変わる部分もあることでしょう。

競争しないと張り合いがなくてサボってしまうというようなタイプの人にも、緊張感を持たせるためにはよいのかもしれません。

ですが「競争させることが万人にとって有効」かと言うと必ずしもそうではないと思うのです。
自分を擁護してしまうことにもなるのですが、私は競争が嫌いです。
競うこと自体があまり好きではありません。
自分で考え噛み砕いてアウトプットするタイプだからです。
作業も工場のような流れ作業は嫌いです。あれこそまさにスピードを求められるので、誰が早いだとか誰が遅いだとかすぐに分かります。
「同じことの繰り返しだから誰だって慣れれば早くできるはずでしょ」と、どのレベルまでの慣れを指して言っているのか分からない人もいるし、ストップウォッチで個々の速さを測る会社もあるくらいなので、出来ない人は辞めていくことになることでしょう。ロボット的な人間が求められます。

私は1つ1つの作業がミスが出ないように考えて行ってしまうので遅くなりがちです。
まわりの人の中には「何も考えずにできるから楽」という人もいました。
そうか、考えないのか。
私は1つ1つを考えるのです。
この記号の意味は?この仕組みは?この言葉の意味は?と。理解したいのです。
だから速さを求められる仕事は向かないのだと自分でわかっています。

事務作業なんかをしていてもそうです。
隣から猛スピードでキーボードを叩く音やマウスをカチカチさせる音が聞こえてくると、気が気ではなくなります。自分が焦り始めてしまいます。
別に「自分が一番できる人」でなくてもいいのに、「自分は遅い」と感じることによって「劣等感」を刺激されているのです。
この「私の思考のクセ」は分かっていてもなかなか改善できるものではないらしく、潜在意識レベルまで染み込んでしまっているのかもしれません。
正直一人で仕事がしたい。
そういうレベルです。
別に誰が早かろうが遅かろうが、会社として損失にならない程度のスピードが維持できていれば(上司から注意されるレベルでなければ)、それなりにこなせているから問題ないはずなのです。

幸いにして今の職場環境では無事なのだけれど、もし周りに作業の早い人がいる環境になると飲み込まれてストレスになることでしょう。
変えたいと何度も思ってきました。
「気にしてはいけない」と。しかし、結局変えることがでずにいます。
他者と比較をする思考のクセがある限り、ノルマやスピードを求められる職場環境に身を置くと、苦しめられることになるでしょう。

隣の席から早い音が聞こえて来ると、心が焦り、手に脂汗を握り、若干パニックになりながら仕事をすることになります。
私にとっては競争する仕事は苦痛でしかないのです。
競争社会の中で生きているのに、競争社会では生きられないのです。
人間の性質が違うのです。
極端な話、会社として求められるのは仕事が早くて正確な人間。 私はいらない人間。 という短絡的とも言える思考回路も繋がってしまっているかもしれません。
私は正確さはある一定レベルで出す自信はありますが、速さを求められると人より劣ります。

一番安心するのは、ある程度の裁量でマイペースで仕事をしてもいい職場。
または、助け合える風土のある職場。
競争することに巻き込まれるとポテンシャルが落ちて逆に作業効率が悪くなることは自分自身で実証済みです。
もう1つ、少々言い方が悪くなるのですが、自分よりも作業が遅い人がいてくれるのも安心です。 そこに「保身」があるからだと思っています。
自分が全体の最後だと酷く劣等感が刺激されてパニックになります。
きっと仕事が苦痛になって辞めることになるでしょう。

 

生産性・効率化。
そればかりを求めてきた現代社会において、私と同じような現実に飲まれている人もきっといるに違いない。

 

(記事作成:2017/12/ 記事調整:2018/08)

 

 

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「大丈夫だよ」という言葉の力と強さ。それを受け取る心。

「君は大丈夫だよ」

それだけで、また次の一歩を進められる。
背中を押してもらえた気になる。
また思考を始められる。
その言葉は強い。

精一杯のありがとうを返したい。

 

 

水を差すようだけれど、私は言葉を受け取るのが下手だ。
ここで私の少々めんどくさくてひねくれた性質を書いてみようと思う。

両親からの「大丈夫だよ」

父親からの「大丈夫だよ」について

父親はものすごく軽い口調で「大丈夫」という言葉を使う。
スナック菓子レベルの軽さの「大丈夫」だと私は感じてしまっている。

父の「大丈夫」という言葉に、私はトラウマを持っているので、その「大丈夫」を信用することが出来ないのだ。
信用できないので「大丈夫」という言葉が発せられた裏付けや理由が欲しくなってしまう。
本来「大丈夫」という言葉には絶対に裏付けが必要なものばかりではない。
希望的観測があっていい。勇気付けるためのものだからそれでいいのだ。

 

しかし、父の「大丈夫だよ」の言葉のあとに行動した私の結果が「失敗」や「恐怖」を感じてしまった経験のほうが多かった。
私の脳には結果として「大丈夫ではなかった」という認識が生まれた。
経験の積み重ねがあって「その大丈夫は信用できないから、理由が欲しい」という思考が出来上がった。

生活に関わる「大丈夫じゃないこと」もあったため「判断の正確さ」が必要とされる場合の父の安易な大丈夫は私は一旦自分の中に持ち帰って考えることにしている。
父の「大丈夫」の逆の行動をした結果が「正解」だったことも何回かあったはずだ。

また、父は父の人生で手一杯であんまり大丈夫じゃないので、芯が通ってない大丈夫に聞こえてしまうのも問題だ。
私も私の人生で手一杯なので、私の私に対する「大丈夫」もあんまり大丈夫じゃないだろう。そう解釈してしまっている。

 

母親からの「大丈夫だよ」について

子供の頃は「大丈夫だよ」とよく声を掛けてもらっていた気がする。
きっと当時は私は救われていたはずだ。父からの「大丈夫」という言葉よりも、母からの「大丈夫」という言葉の方が力があった気がする。

しかし今では母は母で悩みを抱えていて苦しんでいる姿を十数年見続けているし、私は私でこんな状態だし、父は父で定まらないのでなんとも悩ましい状況だ。

母親が何か心配事を抱えている時、私が母親に対して「大丈夫だよ」と言ったとしても、「大丈夫じゃない理由」ばかりが母の脳内に巡っているので、どんなに「大丈夫だよ」と言っても効力が全くない。多分。
自分で自分を大丈夫じゃない世界へ向かわせていくあたり、私の思考回路とそっくりだと思う。不安で仕方がないのだ。
遺伝ってすごいね。いや、生活環境のなせる技なのかもしれない。どっちもか。
もし私が「大丈夫」な人間になっていたら、私の「大丈夫だよ」は母に届くのだろうか?

苦しみながらも家庭を守ってきた母はそれだけで凄いと思う。

 

家族以外の親しい人からの「大丈夫だよ」

「大丈夫だよ」。
家族以外で親しい友人・知人から声を掛けてもらったことは何回かある。
基本的には「大丈夫だよ」という言葉を掛けてもらった経験は少ないのだけれども、 自分をよく知ってもらえるようになった人からは優しい言葉を掛けてもらえることもある。
それが本当に救いになるし、「よし、もうちょっとやれる」ってなる。

もしかしたら、自分が忘れてしまっているだけで、そういう言葉を掛けてもらった経験は記憶している以上にあるのかもしれない。
良い記憶ってなんで消えていってしまうんだろう。
悪い記憶ばかりが頭に残ってしまう。
私に優しさを分けてくれた出来事こそ覚えておくべきことなのに。

しかし、そういう時の「大丈夫だよ」こそ、その時の私の心に届いていたはずだし力になっていたことだろう。

私は助けられたのだと思う。 

 

で、ここからが問題だ。
親しい友人・知人以上、家族未満。
つまり彼女がいた時のこと。
もうずいぶん古い記憶を掘り起こすことになるのだが。
(私に彼女がいたなんて今では信じがたい事実だ。)

あまりに親しくなった人からの「大丈夫だよ」は逆に疑ってしまうようになる。
それがなぜだか分からない。言葉を受け取れないのだ。
素直に受け取った方がコミュニケーションが上手くいくなんていうのは言わずもがな。
だけれど、ひねくれている私は「いや、でも・・・」「だってさ・・・」と否定を始めてしまうのだ。
これでは相手も困ってしまうし嫌な気持ちにもなるだろう。
励まそうとしてくれているのに。支えてくれようとしてくれていたのに。
しかしその場にいる私にとってはそこまで思考が及ばないらしい。
考える前に言葉が出てしまう。「いや、でもさ・・・」って。
そうじゃないんだよ。
もしかすると私のこの思考のクセは「臆病で小心者」だからこそのものなのかもしれない。
十数年の長い付き合いの友人にもこういう対応をしてしまっているかもしれない・・・。

 

これからの「大丈夫だよ」

怪我や病気の時は程度によっては大丈夫ではない時もある。
大丈夫を全て同一のものとして扱ってはいけない。
そこが言葉の難しさだ。

しかし相手を励ますための「大丈夫だよ」や支えるための「大丈夫だよ」には理由や裏付けなんて求めてはいけないし、「上手くいかなかった時のこと」を先行して考える必要なんてない。

結果を「絶対」出さないといけないと思うから間違った方向に向かうのだ。
その「大丈夫」で「絶対」うまくいくのか?と。
もしその「大丈夫」が「大丈夫」じゃなかったら「信用」出来ないということじゃないか?と徐々に逸れた思考になるのだ。
いや、結果に対して「大丈夫」を掛けてしまっているから苦しくなるのだ。

失敗、成功、無難。何のどこに焦点を当てているのか。

その3つともに焦点を当てていてもいいけれども、もっと楽なところがあった。
それは「過程」。

「挑戦してみても大丈夫だよ。やってみることが大切だから。」
「失敗しても大丈夫だよ。経験が積めるから。」
やってみること自体を「大丈夫」にすると、心が軽くなる気がしないだろうか?

「うまくいくから大丈夫だよ」と結末を重視するから失敗した時に「大丈夫」の効力が無かったと認識をしてしまう。
イメージトレーニングは大事だし、何かをやる前に成功するイメージを持つことは大切にされている。
それ自体は全然悪いことじゃないしやって損はない。
しかし成功だけに焦点を当てすぎるとケアが出来なくなることだってある。

言葉の使い方や、心の育て方というのは本当にデリケートで難しい。
特に私のような壊れ物注意ステッカーが貼ってある人にとってはね。
真面目に受け止めて考えてしまうのだ。

 

だから今まで以上にもっと素直に受け取っていい。
もっと気楽に受け取っていい。
良いイメージオンリーで受け取っていい。
そういうことにする。きっとそうしていたことも何回もあったはずだ。
受け取って感謝すれば良いのだ。

 

だから、私は大丈夫なのだ。

多分ね(笑

 

数年後の自分を楽しみにするということ。

今から約2年前。
2016年の5月に書いた記事。

私は日々の生活がマンネリ化していることによって、無感動であり、つまらない生活をしているというようなことを書いていた。

search-life-work.hatenablog.com

 

あれから2年経った今。
人生の根本は変わっていない。
やはり無感動であり、無価値観に苛まれている。
今が楽しいかと問われると、楽しくはない。

しかし、楽しくはないのだけれど、精神的なストレスはそれほど多くは無いと思っている。
特に仕事でのストレスが転職したおかげでずいぶん減った。
眼精疲労がひどいという別のストレスが復活したけれども、前職のような人間関係のストレスはほぼないと言っても過言では無い。

最大のストレスは「稼げない自分」へのストレスだ。
これがクリアできれば心が軽くなるに違い無いと思っている。
お金に苦しんできた家庭なので、この家族を自分がなんとかしなければという、ある種の親の苦しみを子がなんとかしなければというような、変な義務感が染み付いてしまっている。

義務感だけが先行してしまっていろんなことに挫けてしまった。

実際「夢」らしきものに向かって頑張っていた若い頃でさえ、夢があるという楽しみよりも実現しなければという義務感と焦りにとらわれていた。
経過なんてとてもじゃないけれども楽しめなくて、ずっと苦しかったし縛られていた。

果たして自分の将来を想像して「楽しみだな」なんて感じたことがあっただろうか?
「何歳までにはこうなりたい」 というよくある目標設定をしていたけれど、何をやってもうまくいかなくて自分を卑下する傾向が強くなって挫けた。

 

2、3年ほど前にその夢は夢から除外して趣味にしたことで楽になった。
真面目な性格なので「やらなきゃ」になりがちな部分もまだあるけれど、叶えたい!という意思を消したことによって負担は減った。

楽になったおかげなのかわからないけれど、運良く夢だったものに近い分野での仕事にもつくことができてラッキーだった。
もっと早く知っていれば、と思うこともあったけれど、そういうタイミングだったからこそ成れたのかもしれない。

 

少しだけ心の問題は解決した。
けれども根本の部分での人生が変わっていないというのには根深い何かが眠っている。
「笑えない」「楽しめない」「倦怠感に襲われる」などがそれだ。

心を熱くさせるほどの何かがずっと足りていない。
一歩下がったところから静観するような立ち位置でずっと生きている。
自分が主人公になっていない。
自分の人生がいったいどこにあるのか彷徨っている。
見えないのだ。

 

今が楽しめていないのだから未来なんて想像できないし悲観的にもなる。
当然のことだと思う。
しかし逆説的に言えば、未来を想像して楽しいイメージが沸けば今を楽しむこともできるのかもしれない。

つまり数年後の自分に期待をすることで、自分の人生を楽しくすることが出来て、「生きる」ことが出来るようになれるかもしれないのだ。

 

長い間、自分の人生に悲観的なイメージしか持ってこなかったので、良いイメージがもてるのか怪しいところではあるけれども、方法としてそういうこともありなのかなと思った。

 

さて、どうなっていくのか。

 

ひとりぼっちを全力で楽しむ

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