THEO(テオ)で半年間資産運用してみました
資産運用なんていう言葉を使うとかっこよさそうに見えますが、別に大したことはないでしょう。
大したことないはずです。
そもそもTHEOって何?
THEO(テオ)とは少額から始められるロボット(ロボアドバイザー)型の投資信託です。
最初に幾つかのアンケートに答えて、その結果をもとにどういうスタイルで投資を進めるかを判断してもらえます。
ポートフォリオが自動生成されて運用が始まります。
THEOでは最小投資価格が10万円ということで、これなら自分でも始められるかな?と感じて始めてみました。パート労働者(当時。現無職)にとって10万円もなかなかの大金でしたが。
実際に運用してみた体感
「投資ってめちゃくちゃお金が増えるんでしょ?」みたいに思ってしまっていると、ものすごく期待外れな感じがすると思います。 肩透かしを食らった感じです。
私も期待しすぎてしまった部分があったのは否めましせん。
そもそも10万円の投資額というのは、投資の世界ではひよっこのはずです。
たかだか10万円の投資でたくさん増えてしまうはずがありません。
10万円に対するお金の価値観を低く見ておかないといけません。
結局のところ、10万円を半年間運用してみたところ、上がったり下がったりしながら現状維持という感じでした。
上がり幅、下がり幅はともに1000円くらい。
時々運用手数料が引かれます。
10万円に対して1000円の運用益が出るなら、
100万円なら10000円、
1000万円なら10万円、
という単純計算も出来なくはないでしょう。
しかし私にはそんな資産は無いですので、実験は10万円だけです。
それもなけなしの。
お金に余裕のある方はそれなりに入れておいたほうが利益が出る
少額から投資ができるという意味ではとてもお手軽にスタート出来ます。
しかし運用益に期待しすぎると「あれ?こんなもんなの?」って思ってしまいます。
私は思ってしまいました。期待しすぎでした。
10万円預けていて1万円も儲かるなら、みんなやることでしょう。成績良すぎです。
10万円の元本で1000円増えただけでもすごいことだと思います(減ることもある)。
銀行に預金しておくよりも良い気もします。
私は最低額でしか運用できませんでしたが、お金に余裕のある人はそれなりに入れておいたほうが運用益が享受できると思います。
しかしリスクもありますので、あくまでも「余裕」のある方におすすめします。
日々の生活にカツカツの方にはオススメしません。
手っ取り早く始められて、解約も簡単
THEOが何よりも優れているなと思ったのは、ものすごく手取り早く始めることが出来ました。
スマホ片手にポチポチやってるとスタート出来ます。
本人確認書類も免許証を撮影してアップするだけです。
審査が通れば口座開設完了です。あとは運用金を入金すれば自動で運用が始まります。
解約もボタン一つで出来ました。
現在私は解約処理中の段階にあります。
解約申請後8営業日後?に入金しているお金が戻ってくるみたいなので、待っている段階です。
「気軽に始められて、嫌ならやめればい」という、そんな簡単なスタンスでいけます。
その10万円、何に使いますか?
10万円で資産運用ができるという投資信託でしたが、半年で1000円前後の運用益。
もしかすると、このくらいの少額投資のレベルなら普通に株式を買って保有していたほうが得になることもあります。
それは「株主優待」です。年に1回、もしくは半年に1回株主優待を得られる株もあります。
そういうものを持っていたほうが「楽しみ」という面では心が明るくなります。
もちろん安い時に買えば運用益が出せるでしょうし、逆に買った時より金額が下がるリスクはあります。
しかし、長期保有で株主優待を楽しみたい!というのであれば、なるべく安い時に買ったほうがいいのは間違い無いですが、自分としてはそういうスタイルが好みだなって思います。
そんな訳で、私はこの解約した10万円を株式投資のほうに回してみたいと思います。
今回はそんなお話でした。
楽しいことをする計画を立てよう!!
私にとってはなかなかこういう考えに至るまでには時間がかかる。
そもそも楽しいことをするのに計画なんていらない。
だって勝手にやりだすんだもん。
楽しいことは無計画でもやれるものだ。
しかし、私の場合は「やりたいこ」よりも「やらないといけないこと」の方が優先される生き方をしているので、「やりたいこと」でも計画を立て無いと、その気持ちはどこかへ行ってしまう。
自分の特性はよくわかっていて「やりたいこと」はいつのまにか「やるべきこと、やらなければならないこと」に移行する。
つまり、ルーチンという「縛り」に移り変わる。
やりたいことをやっている筈なのに、何かに縛られてしまっている感じからずっと抜けられ無いのはそういうことだ。
しかもその「やりたいこと」が「やらねばならないこと」に切り替わっていったものが結構あって、その全てをかいつまみながら、1年の中を過ごすので、年々やろうとしていることが増えていっている。
今も、アイデアだけは出ているので、その中の幾つかを実行しようとするにちがいない。
「やらなくてもいいこと」を作ら無いと、今後もっと自分に縛られてしまうことだろう。
自分で自分を圧迫する人生だ。
そんなこともあって、会社で仕事をすることすら時間がもったいないとさえ思う日もある。
お金ないのに。
そして自分のルーチンやタスクをこなす日常に達成感や充実感があったとしても、そこに笑いとか笑顔になるなにかとか、そういう「ホッとできる」ような楽しさはない。
「余裕」と言い換えてもいいだろう。
私は私に余裕を作ったほうがい。
そう思うようになった。
元気があればなんでもできる!
そういうことだ。
私は普段買わ無いものを買った。
なんか良さそうなコーヒーでしょ?
私はこれを自分の部屋で飲もうとしてい無い。
水筒にお湯を入れてさ、マグカップを持って出かけてさ。
どこかのベンチに座って飲むコーヒーを楽しんでみたいんだ。
どうだい?
ちょっとだけ楽しそうじゃないかい?
私はそう思うんだがね。
ルマンドアイスを食べてみた
そろそろ夏も終わりだ。
日中は比較的にまだ暑いけれど、朝と夜は肌寒さを感じることが多くなった。
秋の爽やかさと夏の残り香を感じながら、3時のおやつにルマンドアイスを食べた。
あのルマンドがアイスになって登場したのだ。
もう、みんな知っているか。
私が遅いだけなのかもしれ無い。
値段はちょっとお高い。
袋を開けたらモナカのアイスだった。
一口かじると中からあのルマンドが出てきた!
アイスの中に入っているのにサクサクだった。
食べるとボロボロとこぼれ落ちるのもまさにルマンドだった。
おー、確かにルマンドアイスだわ。
冷たいアイスの食感とあの美味しいルマンドの食感がダブルで味わえる夢の共演!!
って、特別感動するわけでもなく。
美味しいんだけれどさ。
別にアイスにならなくたって、ルマンドは普通に食べて普通に美味しいので、ルマンドはそのまま食べたい。
それくらい、ルマンドというお菓子は安定して美味しい。
iPhoneでオーダー取った?え??レジはiPadだって!?
今日、私はとある喫茶店へ立ち寄りました。
初めて入る喫茶店でしたが、お店の佇まいもオシャレで現代風でした。
レトロ感よりも、今風な喫茶店でした。
そこで私が一番目を引いたもの。
それはオーダーをした時に店員さんがiPhoneを使って商品を入力していたこと。
私は思わず「え?iPhoneで???」と心の中で叫びました。
割と田舎に住んでいる私ですので、もしかしたら都会ではもう見慣れている風景なのでしょうか?
なんかもう技術の進歩がめざましすぎて、おじさんはついていけません。
「へぇ!」と感心するばかりです。
最後にお会計をする時にも、そこにはレジが置いてあるわけではなく、iPadが置いてありました。
もう、そういう時代なんですね。
机の上がすっきりしすぎていて、どこがレジなのかわから無いくらいです。
このシステム、一体どこの会社が提供しているのだろうかと思って、帰ってからiPhoneで検索してみました。
そしたら「Usen Register」というものがヒットしました。
Usenさん、音楽で儲からなくなったので、こういうこともやり始めたのでしょうか?
もともと幅広く事業展開していたのでしょうか?
そのあたりは詳しく無いのですが、Usenがポスレジやってるんだね、と1つ勉強になりました。
あー、こういうシステム運用楽しそうだな。
自分で使ってみたいな、なんて思ったりもするのですが、あいにく私にはそれを運用するようなお店を持ってい無いので、残念ながら今のところそのような機会はなさそうです。
もし飲食店界隈で、このポスシステムが流行して定着したら、世の中のレジを作っているメーカーさんは痛手を受けたりもするのかもしれませんね。
その世界をぶっこわしたい。しかし、変えられない。それは変えたく無い。
ただの妄想話なので、今回のお話はふわふわとしているんだけどね。
ある日私は
「その考え方や、そういう価値観といったその世界をぶっこわしたい。」のだと友人Aに言いました。
友人Aは答えます。
「壊せるわけ無いじゃん。それで世界が成り立っているんだから。みんな何かを我慢して生きているし、みんな何かに耐えながら生きているんだから。」
もっともな回答を私に告げる。
しかし私はこう言う。
「我慢している人もいる。耐えている人もいる。現状に違和感を覚えている人もいる。でもそれを抱えて生きていたら絶対苦しいし、我慢した先に幸せがあるとも限ら無い。幸せを感じ無いまま一生を終えることだってありえるじゃないか。我慢や忍耐だけで終わってしまう人生に意味などあるのか?」と。
友人Aは言う。
「それはしょうがないじゃん。その人たちにはこの世界を生き抜ける力がなかったんだよ。能力が無かったんだよ。今は生き抜くにも辛い世の中だからね、行き詰ってしまった人はもうどうしようもないんだよ。」
なんとも冷酷なことを言う。
私に死の宣告を告げているようなものだ。
私はもう人生行き詰った感満載で行き当たりばったりなのだ。
世の中の「普通」は私には存在してい無い。
私は友人に言う。
「それが言えるのは、Aが普通に生きれているからだろ?自分が生きていける世界だから変える必要がないからだろ?もし変わってしまったら自分が生きることのできる世界じゃなくなってしまうからだろ?それはつまりこの世界を変えたく無いってことに等しいよね?」と。
いつの時代だって、世界を変えようとするものは叩かれる。
大きく変えようとする人も、小さく変えようとする人も。
ルールや価値観は、慣れた人や合わせられる人にとっては心地の良い居場所なのだ。
万人に合うルールも無いし、価値観も無いのだから、絶対的なものなど存在しないというのに。
あたかも、そのスタンダードが絶対的であるかのように、慣れている人は信じ込んでいる。私はこの世界(価値観)に安住している。だから変えて欲しく無い、と。
しかし、変えてもらわなければ生きていけ無い人がいる。
そういう人たちにとっては、本当に住みにくい世の中なのだ。
デファクトスタンダード。
それが当たり前のように浸透しているから、それが普通なんだとされること。
多様性の世の中だと言われるようにはなっているけれども、現実的には多様性は認められてい無い。スタンダードから漏れてしまっている人間にとってはどうしたって生きにくい。
スタンダードで生きている人の考え方や価値観から離れているものや、離れすぎているものは、受け入れてもらうことは難しい。
特に、このクローズマインドの世の中では。