ルマンドアイスを食べてみた
そろそろ夏も終わりだ。
日中は比較的にまだ暑いけれど、朝と夜は肌寒さを感じることが多くなった。
秋の爽やかさと夏の残り香を感じながら、3時のおやつにルマンドアイスを食べた。
あのルマンドがアイスになって登場したのだ。
もう、みんな知っているか。
私が遅いだけなのかもしれ無い。
値段はちょっとお高い。
袋を開けたらモナカのアイスだった。
一口かじると中からあのルマンドが出てきた!
アイスの中に入っているのにサクサクだった。
食べるとボロボロとこぼれ落ちるのもまさにルマンドだった。
おー、確かにルマンドアイスだわ。
冷たいアイスの食感とあの美味しいルマンドの食感がダブルで味わえる夢の共演!!
って、特別感動するわけでもなく。
美味しいんだけれどさ。
別にアイスにならなくたって、ルマンドは普通に食べて普通に美味しいので、ルマンドはそのまま食べたい。
それくらい、ルマンドというお菓子は安定して美味しい。
iPhoneでオーダー取った?え??レジはiPadだって!?
今日、私はとある喫茶店へ立ち寄りました。
初めて入る喫茶店でしたが、お店の佇まいもオシャレで現代風でした。
レトロ感よりも、今風な喫茶店でした。
そこで私が一番目を引いたもの。
それはオーダーをした時に店員さんがiPhoneを使って商品を入力していたこと。
私は思わず「え?iPhoneで???」と心の中で叫びました。
割と田舎に住んでいる私ですので、もしかしたら都会ではもう見慣れている風景なのでしょうか?
なんかもう技術の進歩がめざましすぎて、おじさんはついていけません。
「へぇ!」と感心するばかりです。
最後にお会計をする時にも、そこにはレジが置いてあるわけではなく、iPadが置いてありました。
もう、そういう時代なんですね。
机の上がすっきりしすぎていて、どこがレジなのかわから無いくらいです。
このシステム、一体どこの会社が提供しているのだろうかと思って、帰ってからiPhoneで検索してみました。
そしたら「Usen Register」というものがヒットしました。
Usenさん、音楽で儲からなくなったので、こういうこともやり始めたのでしょうか?
もともと幅広く事業展開していたのでしょうか?
そのあたりは詳しく無いのですが、Usenがポスレジやってるんだね、と1つ勉強になりました。
あー、こういうシステム運用楽しそうだな。
自分で使ってみたいな、なんて思ったりもするのですが、あいにく私にはそれを運用するようなお店を持ってい無いので、残念ながら今のところそのような機会はなさそうです。
もし飲食店界隈で、このポスシステムが流行して定着したら、世の中のレジを作っているメーカーさんは痛手を受けたりもするのかもしれませんね。
その世界をぶっこわしたい。しかし、変えられない。それは変えたく無い。
ただの妄想話なので、今回のお話はふわふわとしているんだけどね。
ある日私は
「その考え方や、そういう価値観といったその世界をぶっこわしたい。」のだと友人Aに言いました。
友人Aは答えます。
「壊せるわけ無いじゃん。それで世界が成り立っているんだから。みんな何かを我慢して生きているし、みんな何かに耐えながら生きているんだから。」
もっともな回答を私に告げる。
しかし私はこう言う。
「我慢している人もいる。耐えている人もいる。現状に違和感を覚えている人もいる。でもそれを抱えて生きていたら絶対苦しいし、我慢した先に幸せがあるとも限ら無い。幸せを感じ無いまま一生を終えることだってありえるじゃないか。我慢や忍耐だけで終わってしまう人生に意味などあるのか?」と。
友人Aは言う。
「それはしょうがないじゃん。その人たちにはこの世界を生き抜ける力がなかったんだよ。能力が無かったんだよ。今は生き抜くにも辛い世の中だからね、行き詰ってしまった人はもうどうしようもないんだよ。」
なんとも冷酷なことを言う。
私に死の宣告を告げているようなものだ。
私はもう人生行き詰った感満載で行き当たりばったりなのだ。
世の中の「普通」は私には存在してい無い。
私は友人に言う。
「それが言えるのは、Aが普通に生きれているからだろ?自分が生きていける世界だから変える必要がないからだろ?もし変わってしまったら自分が生きることのできる世界じゃなくなってしまうからだろ?それはつまりこの世界を変えたく無いってことに等しいよね?」と。
いつの時代だって、世界を変えようとするものは叩かれる。
大きく変えようとする人も、小さく変えようとする人も。
ルールや価値観は、慣れた人や合わせられる人にとっては心地の良い居場所なのだ。
万人に合うルールも無いし、価値観も無いのだから、絶対的なものなど存在しないというのに。
あたかも、そのスタンダードが絶対的であるかのように、慣れている人は信じ込んでいる。私はこの世界(価値観)に安住している。だから変えて欲しく無い、と。
しかし、変えてもらわなければ生きていけ無い人がいる。
そういう人たちにとっては、本当に住みにくい世の中なのだ。
デファクトスタンダード。
それが当たり前のように浸透しているから、それが普通なんだとされること。
多様性の世の中だと言われるようにはなっているけれども、現実的には多様性は認められてい無い。スタンダードから漏れてしまっている人間にとってはどうしたって生きにくい。
スタンダードで生きている人の考え方や価値観から離れているものや、離れすぎているものは、受け入れてもらうことは難しい。
特に、このクローズマインドの世の中では。
会社を辞めた途端に寂しさに襲われている。
文句しか出てこなかった会社を辞めた。
表面的な人付き合いでどこか気持ち悪さのある会社を辞めた。
契約した労働時間をほとんど守ってもらえず、オーバーワークになってしまっていた会社を辞めた。
なんども「もう辞める!」と思った会社を辞めた。
辞めた途端、今度は虚無感と寂しさに襲われている。
きっと、それだけそこの仕事が身についていたのだ。
染み付いていたのだ。
ストレスを感じつつも体が勝手に動いてしまっていたのだ。
そう、私は仕事そのものは好きだった。
出来たから。
この仕事は私の強みを行かせていたし、引き出してくれていた。
でも、それを上回るほどのストレスがあったから「辞める」という行動に動いたのはまぎれもない事実。
冷静かつ慎重に辞める方個性に持って行けたか?
と聞かれると、今回の「辞める」は自分でも想像出来ないくらいの突発的ではあった。
一気にゲージを振り切ってしまった。重なったのだ。いろいろと。
体が会社に向かうことを拒否してしまったのだ。
昨日の夜、私物を引き上げに行ったとき、退職届に印鑑を押した。
そのあと、今まで使っていた道具を綺麗にし、油をさした。
ついでに周りの人たちの道具にも油をさした。
2年と3ヶ月。
あっという間だった。ものすごく濃密だった。
そしてものすごく頑張ったし、ものすごくストレスも受けた。
完全なる短距離走だった。
駆け抜けた。
私は自分の机の前に立ち、周りを見渡した。
もう、ここに立つことは無いのだな、と。
そして寂しくなった。
「居場所がなくなった」と感じた職場だけれど「そこに私はいた」。
存在していた。
頑張ったな。本当に。
物を作り、電話対応をし、他の人に教え、問題解決に勤め、納品に走り、不良を修正しに向かい、ついでに愛想も振りまいた、、いや、関係性を築くことに力を入れた。
仕事を愛していたんだなって思う。
やっている時以上に、辞めたあとの方がそれを感じる。
だけれど、長距離走を走るだけの力がなかった。
外的要因もあるし、内的要因もある。
私はこの会社でたくさん学べた。
多くの人に関われた。
良い人もいたし、嫌いになってしまう人もいた。
それが分かっただけでも大きな学びだった。
仕事の内容ももちろん学びがあった。
「完全燃焼」出来ていたのかもしれない。
私は、私の全力で立ち向かって、燃え尽きてエネルギー切れになったのだ。
貴重な人生経験をありがとう。
最後までタイプが正反対で合わない社長だったけれども。
もしあなたが、私と相性の合う性格だったら、もっと頑張れたのかもしれません。
会社、辞めます。そう、伝えた。
ダムが崩壊したように、私の心は潰れた。
昨日、私は一人、黙々と難易度高めの仕事をしていた。
正直、一人ではどうしようもなく、困り果てていた。
困りながらも少しづつ進めていた。本当は助けが欲しかった。
しかし、その難易度のものに付いてこれる人がいなく、皆、逃げる人ばかり。
無言で私はスルーされる。
今回もそうなのだな。私は思った。
同時刻、別の人が困っていた。
その人のところには助けの手が入っていた。
納期が多少優先ではあったものの、誰でも出来る仕事だ。
あー、こんなにも差があるものなのか。
私は一体今まで何で頑張っていたのだろうか?
なんの為に頑張っていたのだろうか?
昨日の帰り際には、少しだけ気をとり直してみた瞬間もあったけれど、夜、寝れなかった。
寝付けなくて、体が震えて、火照って、動悸がして、でも力が入らなくて。
あー、この感覚。まただな。
なるべく落ち着けるように深呼吸して。
いつの間にか朝になっていた。
この時間なら社長、出社しているな。
と思って電話をした。
「会社、辞めます。心が折れました」
社長は仕事の納期のことだけ気にしていた。
出来ない分は断らなければいけないじゃないか、と。
それだけでもやってからではダメか?と。
私は仕事をする為の道具だった。
もう、助ける気は残っていなかった。
今夜、私物だけ引き取りに行って終わりにしよう。