劣等感や無価値感を感じる要因の1つに夢や目標が関係していることもある
夢。
目標。
人生を生きていく上で生きがいになったり、元気の源になったりするもの。
夢に向かって成長している自分や頑張っている自分、努力している自分を認めてあげることができたなら、それはかけがえのない時間を生きていることになりますよね。
「生きている」ことを実感として味わえていることと思います。
たとえ「やってみてダメだった」という結果になっても、過程を認めてあげることが出来ればそれも自信の1つとして現れると思います。
やりたいことに挑戦してみたという経験が残るので、やりたいことが出来なかったという後悔をすることがありません。
しかし、夢を追いかけたり、目標を達成しようとして、挫折感や無価値感を味わってしまうルートもまた、存在しています。
「最初からやめておけばよかった」なんていうマイナスな発想も出てきてしまうルートです。
そして「目指していたものに成れなかった」という後悔を心に残し続けたまま、挑戦していた自分を認めることが出来ず、挫折感に捕らわれ続ける人生を送ることになります。
「1つの夢に固執し、捕らわれ、諦めきれず、鎖につながれている状態」となります。
もしかすると「不完全燃焼」であるのかもしれないです。
私も夢を追いかけていたことのある人間の一人でした。
そして今も捕らわれ続けている人間の一人です。
つまり上記の例でいうならば「後者のタイプ」の人間です。
次に切り替えることが出来ずにずっと引きずっています。
好転するのかどうなのかもわからないこの人生を、暗中模索の状態で進んだり止まったりしています。
愚直といえば聞こえは良いですが、リアリストではないでしょう。
一般の人からみたら「あんな歳になっても、あの人まだそんなことしてるの?」なんていうことを思われているに違いありません。
彼女もいない、結婚もしていない、子供もいない。
そんな私の人生を見下してくる人もいることでしょう。
そして、私は私自身の人生に納得していないから、もがいている。
かっこ悪いかもしれないけれど、もがくことしか出来ない。
それが私なのです。
もがきながら生きている私の人生。
私の「夢」を参考にして夢を追っていたことで受けてしまった劣等感や無価値感がどういった過程で発生してしまったのか?
そしてどうやってその苦しみから脱出していったらよいのか?
ということを自分勝手に思い出しながら考察して解釈してみようと思います。
- その夢の見つけ方は果たして正しかったのか?
- 夢を追いかけていた若かりし頃
- 劣等感や無価値感を感じる日々
- ついに夢を諦めて何もかも嫌になっていた日々
- それでもなんとかやる気が出てきた理由
- 無価値感からは少し抜け出せた
- 劣等感だけは未だに感じている
- それでも前に進む力は得た
- 比較してしまうと下手かもしれないけれども自分が納得出来る絵が描けたら幸せだと思うこと
その夢の見つけ方は果たして正しかったのか?
私の夢は「イラストレーターになること」でした。
その夢は高校生の頃に見つけました。見つけた、というよりはそこにしか目が向かなかったのかもしれません。
中学生の頃の私はパソコンが得意でしたので、将来はパソコン関係の仕事がしたいという漠然とした思いのまま生きていました。
高校生になってからは、勉強はやる意味を見出せず集中できなくて偏差値は下がる一方。
ギターと漫画とゲームに明け暮れるというオタクライフを満喫しておりました。
進路を考えるにあたって、「行きたいと思う大学がない」「勉強する意味が見出せない」などの理由から全くどうして良いのか分からない状態でした。
そんなとき、自然と目が向いたのがゲームのCGでした。
キレイ・可愛い・美しい。3拍子揃ったゲームのキャラクターに心を奪われておりました。
だってオタクですもの。2次元の美少女が好きになります。
そうなってくると話は早いのです。
自分でも描きたい。パソコンが使えるからパソコンで絵が描けるようになりたい。
それまで学校の美術以外で絵を描いていなかった私が、小学生以来にまた筆をとりました。
勉強も運動も楽しくなかった私は、高校の授業で唯一美術だけが楽しみでした。
それ以外の学校生活で楽しかった思い出は・・・オタクの友達と遊んだこと?くらいです。
高校生活は「苦しかった」とだけはっきり覚えています。
イラストレーターになりたいと決めた私です。
さぞや勉強そっちのけで絵ばっかり描いていたのでしょう?と聞かれるかもしれませんが、遊んでいました。画面の向こうの美少女が大事でした。
イラストを描くことよりもゲームで遊ぶことの方が優先的でした。
ギターも好きだったのでギターを弾いて遊んでいました。
専門学校に進路を決めたことに安心してしまって気が緩みまくっていたのでしょう。
気が向いたときだけ気ままに絵を描くというスタンスでした。
なりたい!と思っている割には描いていない。本人的には描いているつもりでいる。
それが当時の私でした。
「やってみたい」と思ったことを当時の自分の中から見つけたところまでは良かったのです。
しかしどう考えても、勉強の出来なかった私は”そこに逃げた”感が強く残ります。
そして専門学校に入ればなんとかなるとでも思っていたのでしょう。
消去法の中から手元に残ったものがサブカルで、興味があるのがイラストだった。
そういう見つけ方でした。
「心の底から湧き上がってくる衝動を抑えることができない」ほどの夢ではなく、非常に安易に「成れるだろう」と思って選んだようです。
「やってみたい」「なってみたい」という気持ちがあるのならばそれを「夢」として選ぶことは間違ってはいないと思います。
しかし、それを達成するための熱意や意欲みたいなものが浅い上に、そうなるにはどうするのがいいのか、ということが考えられなかったのが1つの失敗としてあるのでしょう。
夢を追いかけていた若かりし頃
専門学校に入ればパソコンも絵も上手くなれる!と思っていた私です。
実際学校に入ってみると苦手なプログラミングの授業が多く、イラストの練習が出来る授業がほとんどありませんでした。
じゃあ自分で描く時間を増やそうと思うのですが、想像以上の課題の多さとテストの多さに1年で負けました。自主退学です。
学校選びも失敗してしまいました。自業自得。
もう自力でイラストレーターになってやる!!そう意気込んでの退学でした。
ニート、フリーター、派遣を経験しつつ絵を描いて、ギターも弾いて、時々ゲームもして、という生活をしていました。比重は絵の練習に傾けるようになりました。
「描けば上手くなれる」と信じて少ない資料本を頼りに練習をしていました。
描いても描いても上達しない。上達しないのは描く量が少ないからだと追い込んでまた描く。
描きたいから描いているのではなく、練習するために描いているという感じでした。
楽しくない。
楽しくないから苦しくなる。
苦しくなるから辛くなる。
辛くなるから挫けたくなる。
それでもまだやれる。俺はまだやれる。絶対になってやる。
挫けそうになっても自分を奮い立たせて絵の練習をしていました。
将来描きたい絵を描くために今の苦しい時間があるんだと。
自分が本当に描きたい絵が見つかった時のために描くのだと。
(本当に描きたい絵、という表現をしている時点で、今描きたい絵すら見失っています。)
しかしある時、デザイン職の正社員の仕事を見つけました。
本当はイラストレーターになりたかったけれど、やりたいことに近しい仕事ならやっていけるかもしれない。
そしてそれも興味のある分野でした。
見事に正社員として採用されて2年半ほど勤めました。
良いことも嫌なこともありましたが、貴重な社会経験を積めました。
何より印刷関係の知識を得ることが出来ました。
給料の安さと人間関係において疲れてしまったのが退職の理由でした。
今ではここでの経験には感謝しています。
この間、イラストを描いていたかと聞かれると、「気ままに」やっていましたが「デザインをしている自分」にも満足していたので思ったほど描いていなかったように思います。
けれどもまだ「自分には成れる」という根拠のない自信みたいなものも残っていました。
デザイン職から離れてから、半年間は自分の夢のために使おうと決めて無職のままイラストの練習をしつつ自分のホームページを立ち上げたり、ブログを始めたりとかなり本気で活動していました。
夢のための種まきをしよう!と。
半年後、足がかりは作れたかなというところを感じて新しい仕事に就きました。
はやり生活費は必要でした。
デザイン職は見つからなかったけれど、パソコン関係だったということもあり設計職に就きました。
劣等感や無価値感を感じる日々
就職してすぐ「この仕事(設計職)は自分には向かない」と肌で感じてしまいました。
全然興味が沸かなかったのです。
それでも正社員で入った仕事ですし「続けるうちに興味が出てきて楽しくなるかもしれない」と自分に言い聞かせて、自分の心を騙しながら働いていました。
そして自分で種まきをしたイラストのホームページから年に何件かイラストのお仕事ももらうことが出来ていたので最初は楽しかったのです。
もすごくやる気に満ちていました。
会社の仕事が楽しくなくても、こっちの副業が成功したら会社を辞めて本業でイラストレーターとして独立しよう!!って決めて。
ですがその意気込みは最初の3年くらいまででした。
4年目、5年目になってもなかなか収益が増えません。収益が見込めないということは独立まで持っていけません。
「これではダメだ。どうやったらいいんだ。どうしていいかわからない。」
徐々に気落ちしていく日々です。
こんなイラストじゃダメだ。
自分のイラストは上手くない。
下手過ぎるからいけないんだ。
自分の絵に対する自信を無くしていきました。臆病にもなっていました。
そして絵を描く気力を失いました。
私の絵は、周りの方々の第一線で活躍されている方の絵と比較してしまうと見劣りします。
技術力も表現力もありません。
完全なる力不足です。才能すら無いのかもしれません。
劣等感に悩まされ続けます。
頑張ったつもりだった。努力したつもりだった。いろんなことも我慢してきたつもりだった。
イラストレーターとして成功することが出来ないという挫折感。
そして設計の仕事もうまくいっていないことに対しての無力感。
夢も現実もどちらも全然だめじゃないか。
今まで一体何をやって生きてきたのか。
本当に自分の人生について考えて生きてきていたのか?
自分が大嫌いになってしまいました。
俺って何をやってもダメじゃん、という無価値感しか残りませんでした。
ホームページもブログも更新がストップし、ついには削除するに至りました。
ついに夢を諦めて何もかも嫌になっていた日々
自分はイラストレーターには成れない。成れなかった。
10年ほど追い続けて、最初の頃は確かに遊びもしていたけれども、描く量も増えていって、休日も遊びを減らして努力もしていた。
もう自分にはそれしかないと思って頑張っていたはずだったのに、ダメだった。
昼間の仕事も楽しくないし、全然うまくいかない。
人生のどん底。
口から出てくる言葉もマイナスな言葉や自虐コメントばかり。
もはや生きている価値などない。
そういう日々を生きていました。
まずは絵を描くことを辞めました。
休みの日はやることなくなってしまい、一日中ゴロゴロしていました。
というよりも会社の仕事も辛すぎて楽しくなかったので、とにかく寝ていたかったのです。
誰とも会いたくありませんでした。
そして会社も辞めてしまいました。
会社を辞めてから半年くらい「なにも出来ない自分」と向き合っていました。
やりたいことが何もありませんでした。
それでもなんとかやる気が出てきた理由
家でただただゴロゴロしていると、非常に精神衛生面で悪くなります。
自分を責めることを続けていた数年間の風習がずっと残っていますので、ただただ自責の念に駆られます。
もう俺死んだわ。
生きている理由すらわからない。
生きている意味がない。
そういう感じでした。
本当に自分は何も出来ない。
何もできないなら自殺すればいいんだけれど、自殺も出来ないなら生きるしかない。
生きるしかないなら何か見つけないといけない。
Evernoteに書きためていた過去のメモを眺めていました。
イラストのネタとして描きたいものをメモしていたものがありました。
これ描いてみるか。
そこが始まりでした。
生きるために仕事を見つけよう、とならなかったのが自分らしいです。
会社で働くことはやっぱり嫌い。根強い会社嫌い。
絵を描いてみたら、やっぱり下手でした。
クッソ下手!!
けれど、それを自分で受け入れました。
下手だけれど、自分が描きたいと思ってメモしていたネタ。
自分が描きたいと思っていた絵を、今の自分が描いている。
誰かのためでもなく、生活のためでもなく、自分の心の満足感のため。
そうしたら下手だけれど楽しんでいる自分と出会うことが出来ました。
少しだけ心が回復してきた頃、正社員で働く気は起きなかったけれども、今までの自分とは無関係だった職種でパートで働くことも始めました。
無価値感からは少し抜け出せた
「絵を描くことを楽しむ」という本当の原点に出会えた私。
実は今まで楽しいと感じて描いていたことはほとんど無かったのではないかと思います。
イラストレーターになるために努力して、頑張って描かなきゃいけないというような、ある種の義務感。
「描きたいから描く」のではなく、「成るために描く」ということをしていたのでしょう。
それが辛さの始まりだったのだと思います。
「成るための描く」では自分の心を騙してしまうこともあります。
「やりたくないけれど我慢してやる」という行動原理に似ています。
「イラストレーターに成る」ことを夢だと自分に言い聞かせて、自分の心を騙して生きてきたということです。
それ以外に無かったから。
深層心理に思い込ませたら自分自身を作り変えられるという暗示の夢。
でももう、「夢はなくてもいい」と思っています。
言い方を変えるなら「夢じゃなくてもいい」です。
根っこの部分に「楽しい」が無いことをやっていてるということは「本心」に嘘をついて生きているということでもあるのです。
そう。私の夢は「早く進路を決めなければいけない」という状況から脱出するために「こじつけで作られた夢」だったということです。
「楽しい」があるうちは良かったのです。ですがすぐに「頑張って成ろう」に変わってしまいました。
「夢を叶えるためには辛いことも苦しいこともある。それを乗り越えなければ夢は叶わない。」という標語を信じるならば、乗り越えられ無かったのが私です。
「苦しいことでも楽しめなきゃ夢は叶わないよ。」と専門学校時代の先生は言っていました。
苦しいことは苦しいだけでした。私の夢は叶いませんでした。
ですが、夢の叶え方はこの標語だけが100%ではありませんよね?
もっと何通りもあります。
楽しいままに叶えてしまう人だっているし、根っこの楽しいがあるからこそ辛いことを乗り越える人だっています。
私が無価値感から抜けだせた理由は「夢を無くしたこと」と「楽しむことに焦点を当てた」ことだと思うのです。
「夢を無くしたこと」とはつまり「イラストレーターにならなくてもいいよ」って自分に言ってあげることでした。そしたら「あぁ、もう無理に頑張らなくていいんだ。」って思えてきてホッとしたというか力が抜けたというか、目がウルっときたというか。
どれほど自分で自分を縛り付けていたのでしょうか。
これが私の20代全て。30代の前半で何か気づいた。という感じですね。
そしてもう1つの「楽しむことに焦点を当てた」ということです。
実はこれも高校生のころから「ものごとを楽しむ」ということが出来なくなっていきました。
心の底で何かの不安を抱え、怯え、最悪の事態を想像するということが多くなっていきました。
その癖は今でも抜けきっていません。「楽しい」とか「嬉しい」という感情が窮屈な場所に閉じ込められている感じです。
ですが、楽しめることから楽しもう。と、することにしました。
それが先述の自分のイラストがヘタでも自分が満足できればそれでいいということです。
他にもいくつか「楽しいかも」と思うことには手をつけて遊んだりもしています。
それが今の自分の活力に繋がっています。
自分の絵を自分で認めるという解釈が、自分自身を認めることになりました。
描けない絵はあるけれども、描ける絵を楽しもうと思いました。
出来ないこともあるけれど、出来ることもあると思えるようになりました。
自分の価値を測る物差しがとてもスケールの小さいものだと気がつきました。
世の中には「俺の世話をさせてやるのだからありがたく思え!」なんていう厚かましいとも思える発言をする人もいますが、視点を変えると自分自身に絶対の自信と価値を持っていますよね。
ちょっと分けて欲しいくらいです(笑
劣等感だけは未だに感じている
これはもう自分の思考の癖との闘いとなっています。
劣等感が生まれる理由は「他人との比較」。
何かにつけて「他人と比較する」ということが癖になってしまっています。
学校のテストの点数、成績から始まりました。
仕事のスピードも比較です。理解度があるとかないとかも比較です。
コミュニケーション能力のあるなしも比較です。
協調性のあるなしも比較です。
業種、分野に対しての才能も比較です。
身長も、体重も、見た目も、体力も、体調も。
全部。全部比較です。
比較しすぎて疲れた結果、潰れました。
何にも出来ないじゃんって。
比較することがダメだダメだと分かっていてもしてしまうのです。
比較してしまうことの一番の原因は、「自分の中に基準がないから」なんですよね。
「自分はこう思う。自分はこれで良い。」とする確固たる自信が形成されていないから、他人の良いところと比較した時、自分のそれが劣っていれば「あー、ダメだ、俺。」となるのです。
別のところを見れば「俺すげー。」ってなるかもしれないのに。
せっかく楽しめるようになりつつあるものごとに対しても、この比較癖が出てしまうことにより一気に意気消沈したり、もうやめた!ってなったりしかねません。
「勝負に負けて傷つくのが怖いから、最初から自分で負けてしまっている方が楽」だから比較して負けるようなシステムに脳がインプットされているのだと思うんです。
負けず嫌いだった私。
幼少期のころ、好きだった将棋遊びに親戚の叔父さんに負けました。
「もっと先を読んで打てるようにならんとダメだわー」と言われました。
悔しくて、悔しくて。
そこから将棋をする回数も減りました。
そしてその経験が、「自分が初めから勝ち負けにこだわらず、しかも負けるつもりでやっていれば、負けた時に楽」ということを気づかせてしまったのです。
闘争心が消えた瞬間です。
運動会などで勝とうが負けようがどっちでもいいと思うようになりました。
応援すら気持ちが入りません。
そこなのでしょうね。
私に自信が形成されなかった理由。
勝った経験を自ら殺す。
比較して「最初からダメな自分」にしておけば、負けたことも出来ないことも納得出来るし「ほらね、やっぱり」って楽になる。
つまり、劣等感を消すためには「勝負に挑んで勝つ」経験と「負けた時の心のケアの仕方」を学ぶことが重要なのだと思います。
(でも負けた時の心のケアってどうやるの??)
それでも前に進む力は得た
劣等感は未だに感じますが、無価値感からあ脱出しつつあるわけです。
少しだけ推進力がついています。
「イラストレーターになるのやめた!」「夢を捨てた」という割には、また始めたのがイラストだったというのはつくづく諦めが悪いというか、結局それにこだわっているのかよ!というのか。
諦めたらいいのに、諦めることが出来ていない時点で固執している部分もあるのでしょうけれど、以前の自分と違うところを挙げるのならば「楽しんで描いている」という心を大事にしているということ。
そして「無理に描こうとしている自分」を見つけたら、敢えて「描いてはいけない」という判断をしているということ。そして「楽しくなくなったら描くのをやめてもいい」としたこと。
だからこれは「夢」ではない。もう成ろうとしていないのだから。
でも運良くこのまま上達して成れちゃったらラッキー!って思うことにしようって決めたこと。
そのための自分流の描き方と出会えたらいいなと思っていること。
それが今の楽しみの1つになっているということ。
描きたくなったら描けばいい。
描きたくないなら辞めればいい。
その選択の曖昧さと自由さの中に「気軽に楽しむ」という価値を見つけたということ。
それが続けられる理由になるということ。
たとえ目指しているものに成れないという結果に終わってしまったとしても、それでもやりたいという気持ちがあるならばやっていてもいいんじゃないだろうかと思えたこと。
それが今の前に進む力。
比較してしまうと下手かもしれないけれども自分が納得出来る絵が描けたら幸せだと思うこと
今の自分に出せる最大限の答えがこれでした。
「比較してしまうと下手かもしれないけれども自分が納得出来る絵が描けたら幸せだと思うこと」
それが分かっただけでも、自分の人生は一歩進めたのかもしれない。
そして「気がついたら知らないうちに”そう”なっていた」のが、自分の「そうなる」場所だということ。
もしかしたら、もう自分の心が動き出してそこに向かっているのかもしれない。
たくさん書いたなぁ。
もし最後まで付き合って読んで下さった方がおられましたら、本当にありがとうございます。
私の3時間が生かされました。
自信と劣等感の心理学 ~何があなたの中の自信を引き出すのか~ (だいわ文庫)
- 作者: 加藤諦三
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2010/04/07
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 15回
- この商品を含むブログ (2件) を見る