人生につまづきながら生き方や働き方を模索していくブログ

どうにも社会人として会社に馴染めないとか、生きるのがちょっと疲れちゃってたりとか、生き方とか働き方に疑問を持ってたりとか、なんかそんな事とかそうじゃない事とかをのんびり書いていくブログ。

心の底から頼れる大人が身の回りにいなかったと思い込んでいるのは間違いなのだろうか?

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自分の意見や考え方が多くの場面で否定されたり認められることがない人生を送ってきた場合、そして自分の意思決定が失敗した経験を多くしていた場合。

人は自信を無くす

 

 

自分の決定に自信がなかった

進学する学校選びにしても、会社選びにしても最終的に決めるのは自分。
全ては自己責任。
自分の人生だから自分の進路決定の判断は最終的には己で行うのが正しい。
そう思う。

私が学生時代の頃、進路を親に相談しても「私はわからないから自分が行きたいところに行っていいよ」とある意味ありがたい答えが返ってきた。
そういう意味ではとても自由だったし、自分が行きたいと思ったところに行くことができた。

しかし自分が出した答えが正しい判断だったのか間違っている判断だったのか。
その判断が自分自身で迷ってしまうことが自信が持てないことの1つ。
自分の決定を信じることが出来ない。
自分を信じることが出来ていない。
「それで良かった」と感じていることが出来ていない。
だから「頼れる大人が周りにいなかった」と周囲に責任転嫁してしまっていることは否定できない。


自分の決定に「これでよかった」「これでいい」という自信が無かったので「実は違う進路があったのではないだろうか?」「本当は別の道があったんじゃないだろうか?」と疑ってしまうのだ。
場合によっては「決定を下しているその瞬間」は自信があったこともある。
しかし振り返ってみると「あれ?」っとなってしまった経験が多かったので、自分の意思決定を疑ってしまう思考になっていることも考えられる。

ただ、自分だけで集めれる情報はとても限られていて、実は判断材料としてとても小さな世界でしかものが観れていなかったのではないかとも思う。

多角的な判断をすることが果たして出来ていたのだろうか?

 

 

 

生き方を示してくれる人がいない

こうしてみたらどう?と相談に乗ってもらえれるような人がいなかった。

「色々な生き方があるんだな」と視野が少し広くなってきたのは本当にここ数年の出来事なのだ。
それまでの自分は、本当に見えている世界が狭かった。
端的に言ってしまえば「サラリーマンとして働く」か「独立・自営で働く」かの2択しかなかった。
そしてそのどちらかで私は彷徨っていた。
いや、今も彷徨っていると言えようか。


生き方を示してくれるような、指針となるような出来事や体験、見聞が狭い。
手本としたいと思えるような大人も周囲にいなかった。
そういう生き方をしてもいいのだと感じられるようなこともなかった。

これから自分で感じていくより他ないのだ。
自分で想像して作り出していくしかないのだ。
強いて言えば自分には決定的に「生活を想像していく力」というものが欠落しているようにも思える。

「自分が宙に浮いているような感じがする」というのは自分がどういう生活をしたいのか、自分がどう生きていきたいのかということが、明確ではないのだ。

どこかで自分を疑っているから、たとえイメージした生活があったとしても自分のものとして取り込むことも出来ないのかもしれない。

だから彼女がいる自分にもイメージが持てないし、ましてや結婚して家庭を築いている自分がイメージ出来ない。
結果、彼女を心の底から求めてはいない。
「一人の方が楽」という世間体を表に出してみるけれども、実際は想像できないのである。

 

 

 

 

やりたいこと」はある。
つづけていきたいこと」もある。
なれたらいいな」と思うこともある。
だけれどふわふわしている。
決定的に足りないものがある。

人生の基盤

まさにそれなのだ。
生きることがなんなのか分かっていない。
生きている意味がなんなのか分からない。
モラトリアムから抜け出せないでいる、というよりもモラトリアムなど存在しておらず、一貫して精神面でのコアとなる部分がないのかもしれない。
空っぽな自分。


自分の心の中の問いかけに対して、それを相談できる大人がいなかったということは、自分自身で答えを出すしかない。
しかも自分自身を信じていることが出来ていない人が出す答えだ。
出てきた答えを信じられるのか?と聞かれたら信じられないだろう。
だから不安になるのだ。
自信力」というものがない。

大人になる過程の大事な節々で、確かに最後に決めるのは本人なのだけれども、もし迷ったり悩んだりしているときに、そっと寄り添って問答をしたり、話し合ったりして導いてくれるような大人。
そういう人が人生でいなかったことが、自己形成を失敗してしまった理由の1つにあるのではないだろうか?と勝手に考えてみたのである。
この考えは間違っているのだろうか?ゆがんでいるのだろうか?甘えているだけなのだろうか?

真剣に自分の悩みに向き合ってくれた」と感じる大人の存在が「いた」場合と「居なかった」場合の心の満たされ感の違いというのは人生に影響を与えているのではないかと思う。

 

 

 

一生折れない自信のつくり方 文庫版

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