他人に迎合する生き方は人生を狂わせる
自分の中の「生きづらさ」を覚える一つとして、人に合わせ過ぎるところがある。
人に合わせすぎるということは
- 人にいい顔をする
- よく思われたいから何でも引き受けてしまう
- 優しくしてしまう(間違った優しさ)
- 気を遣い過ぎてしまう
- 人の顔色を窺って行動するようになる
というようなことが挙げられる。
なぜ、「人に合わせ過ぎている」という考えに至ったのか。
それはそういう行動をした後に残る心の中の変なモヤモヤ感を感じ取ったからだ。
今までの私は、そういう気持ちすら感じないようにしていたところもあるらしい。
「人に合わせ過ぎていた」というよりも「人に対して強く出れない気弱な自分」であると思っていた。
しかし、どうもそうではないらしい。
確かに気弱なところもあるのだけれど、「気弱」というよりも「自分の意見が持てていないから従っているだけ」という、流されやすい生き方をしていた。
もし自分の意見を持っていれば、「私はこうしたい」「私はこう考える」という交渉が出来るはずなのだ。
でもそれが出来ない。
出来ないということは自分の意見が無い。考えがない。持てない。
私は一体どこにいるのだろうか?
- それは「迎合」なのか「気を遣っている」だけなのか
- 迎合する生き方は自分の本音を殺している
- 迎合する生き方をするようになってしまったきっかけは
- 迎合すると自分も人も見失う
- まずは「自分がどう感じたのか」ということを積極的に感じていくこと
それは「迎合」なのか「気を遣っている」だけなのか
私は
「周りに気を配るのが上手い」
「人の気持ちを察知して相手に不快な思いをさせないように気を付けることが出来ている」
そういう生き方が出来ていると思っていた。
だけれどそれは、私自身の心に「疲れ」を招いていた。
出来ていたのではなく、無理をしていた。
他人の思考を「想像しすぎてしまう」のだ。当たっているとも限らないのに。
そしてそれが「生き方のクセ」になってしまっているために、止めようとすると「自分は優しくない人」だと脳が思ってしまうらしく、また、人に対しての「過剰な気遣い」をし始める。
された方も、最初はいいのかもしれないけれども、毎回それが続くと「異常な気遣い」に不信感を抱いていることだろう。
「さりげない気遣い」だったら「気を遣っている」だけなので相手も気兼ねなくそれを受け入れてくれるだろうし、大人として適切な対応が取れていることだろう。
しかし「過剰な気遣い」は「私はあなたのことを意識していますよ」「いつも見ていますよ」という受け手として気持ち悪がられるであろう行動になってしまうのだ。
多分ね。
そして過剰な気遣いは「相手に気に入られたい」「相手に嫌われたくない」という意思の表れでもある。
そして問題は「迎合」である。
「自分の意見を持つこと」が出来ないので、他人の意見に「そうだねー」って言って合わせている方がとても楽なのではあるが、自分の意見が無い為に他人の軸に振り回されやすい。
迎合を始めると表面上は仲良くなりやすいが本音で付き合うことは出来ないし、何より他人にいいように扱われれてしまう。
迎合の良いところは「最初のとっつきやすさ」だけだろう。
仕事を例に取ってみると
- 「迎合する」→「気に入られる」→「仕事をなんでもやってくれると思われる」→「過剰に仕事が集中する」→「心身ともボロボロになる」
- 「迎合する」→「気に入られる」→「仕事をなんでもやってくれると思われる」→「過剰に仕事が集中する」→「断り始める」→「ケンカになる」→「人間関係が壊れる」
というようなルートが出来、どちらも良い結果を招かない。
気を遣って相手に合わせているうちに、どんどん相手のペースに飲まれていき、気が付いたら取り返しのつかないところまで来ている。
迎合する生き方は自分の本音を殺している
「迎合」する生き方を知らず知らずのうちに取っている場合は、もうその時点でその生き方が常態化しているので「自分の本音」を探すことがとても難しくなっていることが多い。
しかも「自分の本音」どころか、「自分の考えが何もない」状態になっていて「本音」を探すことすら出来ないでいる。
「自分がない」「自分はからっぽ」という虚無感に襲われる。
自分の本音は一体どこにあるんだろう?と深い苦しみを味わうことになる。
また、自分の意見を持てていてそれを相手にぶつけた時の相手からの反応もまた「恐怖」だったりする。
「恐怖」とは思っていないのかもしれないが「瞬間的にやってしまった」と思うこともあるかもしれない。
それは「相手の意見との食い違い」である。
自分の意見を述べた後にされる、相手の意見や批判が過剰に怖いのだ。
個体が違うのだから、意見が違うのは当然なのだけれど、批判されたり、相手の意見を受け入れられないようなことでも、「譲歩」という形の「迎合」を行ってしまう場合が多々ある。
本音を合わせた「譲歩」なら良いのだけれど、本音を殺した「譲歩」は譲歩ではない。
迎合する生き方をするようになってしまったきっかけは
迎合するようになってしまうきっかけとは一体どういうところから始まるのだろうか?
一番手っ取り早く思いつくのは「親からの躾」だろう。
悪いことをすれば怒られる、口を聞いてくれない、物置に閉じ込められる。両手を縛られる。
母親が特にこの傾向が強かった。
母も祖父にこのような躾を受けていたらしいので、伝承されている。
そして自分にも攻撃的な部分はあったので、こういうことをされると反抗したくなる。
物置に閉じ込められようものなら、物置を壊すくらいの勢いで中から破壊を始めたり、過剰に叱られようものなら、家の中の物に当たって癇癪を起していた。
お互いのエネルギーのぶつかり合いが激しくてエスカレートして行ってしまったのかもしれない。
他の家庭の子育てがどういうものなのかは知らないけれども、うちの親はこんな感じだった。
そして知らないうちに「親の顔色を窺う」ということを刷り込まれてしまう。
何が良くて何が悪いのかを感じ取るようになる。
親の機嫌をとることもしているのかもしれない。無意識で。
親にとっての「良い子」とは「なんでも言うことを聞く子」「自分から勉強をする子」。
悪い言い方をすれば「親にとっての都合のいい子」。
操り人形。
いつから、というと「いつ」という年代や日付がある訳ではないが、徐々に、知らない間にそういう人間になっていったとも考えられる。
もちろん、これが全てではないだろうし、これ以外にも思い当たるようなところがあれば、いずれまた書き出してみたいとも思う。
迎合すると自分も人も見失う
迎合の良いところは先にも挙げたが「最初のとっつきやすさ」だ。
何とも人当たりが良く感じられる。
本当は人見知りなのに。
誰とでも仲良くなれてしまう気がしてしまう。
しかしそれは本当に最初の頃だけ。
ある程度付き合いが長くなってくると、人となりが分かってくる。
そうるすと、実態が無いような空を掴むような存在で芯がないことが分かる。
あの人の本音はどこにあるのだろうか?と気味悪がられてしまう。
本人的にも「どう思っているのか」を本音でぶつけることが出来ない。
そもそも「何も思っていない(と感じている)」から意見がないので発することが出来ないこともある。
そしてどこまでが「迎合」で、どこまでが「協調性」なのかの境目の基準も分からない。
自分の立ち位置を見失っているのである。
協調性が無さ過ぎるのも日本社会ではハブられる。
「迎合」と「協調性」をはき違えているので何が正しい行動なのかが分かっていない。
「こういう人だ」という個性も消えているから伝わらない。
相手からも不審がられ(この不審感が個性と受けられる?)、接し方が分からなくなるらしく離れていく。
どういう人なのか分からない。つまりいてもいなくてもどっちでもいい人。
もしくは不気味で近寄りがたい人。
相手にしたくない人。
そういう人になってしまう。
もう1つ、「迎合」の弊害は「人を見抜く力」を養うことが出来ないことだ。
相手に合わせようとすることは、相手のすべてをOKだと受け入れることに他ならない。
正しいことも悪いことも全てがOKになってしまう。
自分の「正義」が曲がってしまうのだ。
そうなってくると「悪いタイプ(自分とは合わないタイプ)の人」でも正しいと受け入れることになり、振り回される。
近寄ってはいけない人にも近寄ってしまう。
疲れるよね。
疲れるんです。
もちろん、傾向の度合いによって、振り回され度合いも違ってくるのだけれども、私自信、どのくらいのレベルの迎合度合いで、どのくらい振り回されるのか客観的な位置づけで自分を見ることは出来ていない。
殊更、女性に対しての迎合度合いが酷く「変な女性に引っかかる」ことがある。そして普通の女性は寄ってこない。と、思っている。(非常に失礼な物言いかもしれないけれど)
まずは「自分がどう感じたのか」ということを積極的に感じていくこと
最近、私は気を遣うことを減らし始めている。
私が気を遣わなくても他人は勝手に行動する。過剰な気遣いは監視されているとも取られてしまうかもしれない。
必要な時だけ気を遣うことが出来ればいいのだ。
そのポイントを見極めれるかどうかが今後の課題でもある。
そして何より
- 自分の意見をもつこと。
- 相手の意見との違いを認めること。
- その後に自分はどうしたいかを考えること。
この3つを気を付け始めるようにしている。
今はまだなかなか出来ない。意見を言い過ぎて失敗してしまうこともある。
瞬間的な反応として出来るようになるまでには時間が掛かるかもしれない。
今までは瞬間的に迎合していたのだから、そのクセのままだと迎合が続く。
一呼吸おいて考える時間を自分につくれるようにしなければならない。
でも、とりあえず失敗してもいい。
「今」「自分が」「どう感じたのか」ということを大切にして生きることをしていかなければいけない。
「他の誰かが喜んでくれる」のは良いことだけれども、「自分の意見を殺して」まで「相手を喜ばせようとする」のはただの自己犠牲だ。
自分は幸せじゃない。だから辛い。
お互いが幸せでなければいけないのだ。