数年後の自分を楽しみにするということ。
今から約2年前。
2016年の5月に書いた記事。
私は日々の生活がマンネリ化していることによって、無感動であり、つまらない生活をしているというようなことを書いていた。
search-life-work.hatenablog.com
あれから2年経った今。
人生の根本は変わっていない。
やはり無感動であり、無価値観に苛まれている。
今が楽しいかと問われると、楽しくはない。
しかし、楽しくはないのだけれど、精神的なストレスはそれほど多くは無いと思っている。
特に仕事でのストレスが転職したおかげでずいぶん減った。
眼精疲労がひどいという別のストレスが復活したけれども、前職のような人間関係のストレスはほぼないと言っても過言では無い。
最大のストレスは「稼げない自分」へのストレスだ。
これがクリアできれば心が軽くなるに違い無いと思っている。
お金に苦しんできた家庭なので、この家族を自分がなんとかしなければという、ある種の親の苦しみを子がなんとかしなければというような、変な義務感が染み付いてしまっている。
義務感だけが先行してしまっていろんなことに挫けてしまった。
実際「夢」らしきものに向かって頑張っていた若い頃でさえ、夢があるという楽しみよりも実現しなければという義務感と焦りにとらわれていた。
経過なんてとてもじゃないけれども楽しめなくて、ずっと苦しかったし縛られていた。
果たして自分の将来を想像して「楽しみだな」なんて感じたことがあっただろうか?
「何歳までにはこうなりたい」 というよくある目標設定をしていたけれど、何をやってもうまくいかなくて自分を卑下する傾向が強くなって挫けた。
2、3年ほど前にその夢は夢から除外して趣味にしたことで楽になった。
真面目な性格なので「やらなきゃ」になりがちな部分もまだあるけれど、叶えたい!という意思を消したことによって負担は減った。
楽になったおかげなのかわからないけれど、運良く夢だったものに近い分野での仕事にもつくことができてラッキーだった。
もっと早く知っていれば、と思うこともあったけれど、そういうタイミングだったからこそ成れたのかもしれない。
少しだけ心の問題は解決した。
けれども根本の部分での人生が変わっていないというのには根深い何かが眠っている。
「笑えない」「楽しめない」「倦怠感に襲われる」などがそれだ。
心を熱くさせるほどの何かがずっと足りていない。
一歩下がったところから静観するような立ち位置でずっと生きている。
自分が主人公になっていない。
自分の人生がいったいどこにあるのか彷徨っている。
見えないのだ。
今が楽しめていないのだから未来なんて想像できないし悲観的にもなる。
当然のことだと思う。
しかし逆説的に言えば、未来を想像して楽しいイメージが沸けば今を楽しむこともできるのかもしれない。
つまり数年後の自分に期待をすることで、自分の人生を楽しくすることが出来て、「生きる」ことが出来るようになれるかもしれないのだ。
長い間、自分の人生に悲観的なイメージしか持ってこなかったので、良いイメージがもてるのか怪しいところではあるけれども、方法としてそういうこともありなのかなと思った。
さて、どうなっていくのか。