人生につまづきながら生き方や働き方を模索していくブログ

どうにも社会人として会社に馴染めないとか、生きるのがちょっと疲れちゃってたりとか、生き方とか働き方に疑問を持ってたりとか、なんかそんな事とかそうじゃない事とかをのんびり書いていくブログ。

「大丈夫だよ」という言葉の力と強さ。それを受け取る心。

「君は大丈夫だよ」

それだけで、また次の一歩を進められる。
背中を押してもらえた気になる。
また思考を始められる。
その言葉は強い。

精一杯のありがとうを返したい。

 

 

水を差すようだけれど、私は言葉を受け取るのが下手だ。
ここで私の少々めんどくさくてひねくれた性質を書いてみようと思う。

両親からの「大丈夫だよ」

父親からの「大丈夫だよ」について

父親はものすごく軽い口調で「大丈夫」という言葉を使う。
スナック菓子レベルの軽さの「大丈夫」だと私は感じてしまっている。

父の「大丈夫」という言葉に、私はトラウマを持っているので、その「大丈夫」を信用することが出来ないのだ。
信用できないので「大丈夫」という言葉が発せられた裏付けや理由が欲しくなってしまう。
本来「大丈夫」という言葉には絶対に裏付けが必要なものばかりではない。
希望的観測があっていい。勇気付けるためのものだからそれでいいのだ。

 

しかし、父の「大丈夫だよ」の言葉のあとに行動した私の結果が「失敗」や「恐怖」を感じてしまった経験のほうが多かった。
私の脳には結果として「大丈夫ではなかった」という認識が生まれた。
経験の積み重ねがあって「その大丈夫は信用できないから、理由が欲しい」という思考が出来上がった。

生活に関わる「大丈夫じゃないこと」もあったため「判断の正確さ」が必要とされる場合の父の安易な大丈夫は私は一旦自分の中に持ち帰って考えることにしている。
父の「大丈夫」の逆の行動をした結果が「正解」だったことも何回かあったはずだ。

また、父は父の人生で手一杯であんまり大丈夫じゃないので、芯が通ってない大丈夫に聞こえてしまうのも問題だ。
私も私の人生で手一杯なので、私の私に対する「大丈夫」もあんまり大丈夫じゃないだろう。そう解釈してしまっている。

 

母親からの「大丈夫だよ」について

子供の頃は「大丈夫だよ」とよく声を掛けてもらっていた気がする。
きっと当時は私は救われていたはずだ。父からの「大丈夫」という言葉よりも、母からの「大丈夫」という言葉の方が力があった気がする。

しかし今では母は母で悩みを抱えていて苦しんでいる姿を十数年見続けているし、私は私でこんな状態だし、父は父で定まらないのでなんとも悩ましい状況だ。

母親が何か心配事を抱えている時、私が母親に対して「大丈夫だよ」と言ったとしても、「大丈夫じゃない理由」ばかりが母の脳内に巡っているので、どんなに「大丈夫だよ」と言っても効力が全くない。多分。
自分で自分を大丈夫じゃない世界へ向かわせていくあたり、私の思考回路とそっくりだと思う。不安で仕方がないのだ。
遺伝ってすごいね。いや、生活環境のなせる技なのかもしれない。どっちもか。
もし私が「大丈夫」な人間になっていたら、私の「大丈夫だよ」は母に届くのだろうか?

苦しみながらも家庭を守ってきた母はそれだけで凄いと思う。

 

家族以外の親しい人からの「大丈夫だよ」

「大丈夫だよ」。
家族以外で親しい友人・知人から声を掛けてもらったことは何回かある。
基本的には「大丈夫だよ」という言葉を掛けてもらった経験は少ないのだけれども、 自分をよく知ってもらえるようになった人からは優しい言葉を掛けてもらえることもある。
それが本当に救いになるし、「よし、もうちょっとやれる」ってなる。

もしかしたら、自分が忘れてしまっているだけで、そういう言葉を掛けてもらった経験は記憶している以上にあるのかもしれない。
良い記憶ってなんで消えていってしまうんだろう。
悪い記憶ばかりが頭に残ってしまう。
私に優しさを分けてくれた出来事こそ覚えておくべきことなのに。

しかし、そういう時の「大丈夫だよ」こそ、その時の私の心に届いていたはずだし力になっていたことだろう。

私は助けられたのだと思う。 

 

で、ここからが問題だ。
親しい友人・知人以上、家族未満。
つまり彼女がいた時のこと。
もうずいぶん古い記憶を掘り起こすことになるのだが。
(私に彼女がいたなんて今では信じがたい事実だ。)

あまりに親しくなった人からの「大丈夫だよ」は逆に疑ってしまうようになる。
それがなぜだか分からない。言葉を受け取れないのだ。
素直に受け取った方がコミュニケーションが上手くいくなんていうのは言わずもがな。
だけれど、ひねくれている私は「いや、でも・・・」「だってさ・・・」と否定を始めてしまうのだ。
これでは相手も困ってしまうし嫌な気持ちにもなるだろう。
励まそうとしてくれているのに。支えてくれようとしてくれていたのに。
しかしその場にいる私にとってはそこまで思考が及ばないらしい。
考える前に言葉が出てしまう。「いや、でもさ・・・」って。
そうじゃないんだよ。
もしかすると私のこの思考のクセは「臆病で小心者」だからこそのものなのかもしれない。
十数年の長い付き合いの友人にもこういう対応をしてしまっているかもしれない・・・。

 

これからの「大丈夫だよ」

怪我や病気の時は程度によっては大丈夫ではない時もある。
大丈夫を全て同一のものとして扱ってはいけない。
そこが言葉の難しさだ。

しかし相手を励ますための「大丈夫だよ」や支えるための「大丈夫だよ」には理由や裏付けなんて求めてはいけないし、「上手くいかなかった時のこと」を先行して考える必要なんてない。

結果を「絶対」出さないといけないと思うから間違った方向に向かうのだ。
その「大丈夫」で「絶対」うまくいくのか?と。
もしその「大丈夫」が「大丈夫」じゃなかったら「信用」出来ないということじゃないか?と徐々に逸れた思考になるのだ。
いや、結果に対して「大丈夫」を掛けてしまっているから苦しくなるのだ。

失敗、成功、無難。何のどこに焦点を当てているのか。

その3つともに焦点を当てていてもいいけれども、もっと楽なところがあった。
それは「過程」。

「挑戦してみても大丈夫だよ。やってみることが大切だから。」
「失敗しても大丈夫だよ。経験が積めるから。」
やってみること自体を「大丈夫」にすると、心が軽くなる気がしないだろうか?

「うまくいくから大丈夫だよ」と結末を重視するから失敗した時に「大丈夫」の効力が無かったと認識をしてしまう。
イメージトレーニングは大事だし、何かをやる前に成功するイメージを持つことは大切にされている。
それ自体は全然悪いことじゃないしやって損はない。
しかし成功だけに焦点を当てすぎるとケアが出来なくなることだってある。

言葉の使い方や、心の育て方というのは本当にデリケートで難しい。
特に私のような壊れ物注意ステッカーが貼ってある人にとってはね。
真面目に受け止めて考えてしまうのだ。

 

だから今まで以上にもっと素直に受け取っていい。
もっと気楽に受け取っていい。
良いイメージオンリーで受け取っていい。
そういうことにする。きっとそうしていたことも何回もあったはずだ。
受け取って感謝すれば良いのだ。

 

だから、私は大丈夫なのだ。

多分ね(笑