人生につまづきながら生き方や働き方を模索していくブログ

どうにも社会人として会社に馴染めないとか、生きるのがちょっと疲れちゃってたりとか、生き方とか働き方に疑問を持ってたりとか、なんかそんな事とかそうじゃない事とかをのんびり書いていくブログ。

それをする必要がなくなったということは、そこから解放されたのだ。

2019年年末。
2018年の年末より1年間、私はこのブログを更新しなかった。
そう、今回私がこのブログを書くのは完全に気まぐれだ。
それは一年の終わりだからかもしれない。

今年は私にとって流れに変化が起きた一年だった。
上半期まではいろいろと抱え込んだり、落ち込んだり、くたびれたりと相変わらずだったが、下半期に入る頃から少しづつ変わっていった。

 

【正社員になった】
サラリーマンをやめて、1年間療養して4年ほどパートで生活を繋いできたが正社員登用のお話を頂くことができ私は承諾した。
通常の私であれば「8時間労働」「週5勤務」という「世間のスタンダード」には耐えることができないので断るところではあるのだけれど、「6時間労働」「週4勤務」「時短正社員」「ボーナスあり」という好条件を提示して頂くことができ、私は受け入れたのだ。
断る理由などどこにもなかった。
仕事にも慣れた。人間関係も良好。残業なし(自由)。
私はこの会社に感謝している。
来年はさらに忙しくなるらしいので、出来る限りの事はしていきたい。

 

【副業もそれなりに頑張れた】
もちろん会社に許可は頂いている。
私は私で自分の道は模索していきたい人間らしいことはわかっている。
避けては通れない。
ありがたいことに何社からかは単発だがお仕事を頂けた。
来年、リピートに繋がる会社が出てくると嬉しい。これは希望。未来は不明。

 

【オリジナルの絵は描くのを止めた】
描いていても楽しくない。気に入らないところばかりが目について面白くない。
面白くないのに何年苦しめば気がすむのだろうか?
自分で自分にかけた呪いから解放されることは大変だった。
長年の「成れる!」「できる」「頑張れ!」でがんじがらめになったところをフラットに戻す作業というのはものすごく時間とエネルギーがいる。
散々脱出できたと思っていたのに出来ていなかったらしく上昇下降を繰り返していた乱高下。
やっと。やっと。
「やらなくてもいい」という状態に持って行けた。
だからもう無理に描こうとしない。
描きたくなったら描けば良い。描きたくないなら描く必要なんてどこにもない。
気まぐれで良い。

 

【本もブログも読むのを止めた】
私が本を読むのは「問題を解決するための情報が欲しいから」という明確な目的がある。
人間関係に悩んでいるときは「人間関係が改善できそうな本」を読むし、人生がつらいときは「人生がうまくいくようなことが書いてある本」を読む。
だけれど、今はそのどれもが必要なくなった。
自分も相手も変わらない。その場にいる人とたまたまうまくいくのか、たまたまうまくいかないのか。ただそれだけのこと。
うまくいかない環境にいるから悩んでしまう。私がその環境に身を置いたらまた悩むだろう。間違いなく。
今、たまたま悩む必要のない環境にいる。だから今は必要がない。それでいい。
人生は辛いが仕事の悩みが改善されたのでいくばくかの救いも得ている。それでいい。

【頑張ってしまうので頑張らないようにするようにした】
所詮私はいい加減な人間であるということ。
いい加減な人間だからこそ、努力して頑張らないといけないという暗示があるということ。
必要以上に頑張ろうとしてしまうということ。
肩の力を抜け。
仕事で頑張ってしまうのなら、ダラダラする時間だって必要だ。
「頑張り続けられる人だっているじゃん?」は愚問だ。君はその人か?
私は休みたい。

 

【まずはそこを生きるということ】
「死にたい」って本当に思わなくなってきている。
かといって「生きたい」と思っているかというとそうでもない。
生きててもいいし、死んでもいい。でも生きているから生きている。
数年前まで「死にたい」「自分は必要ない」と思わない日が無かったのに。
ここまで意識が変わるものなのかと思っている。
考える必要がなくなってきているらしい。
「今」はこれでいい。

 

光もあれば闇もある。
闇しかないときもあれば、光しかないときだってある。
全てがどうでもいいことかもしれないし、全てが大切なのかもしれない。
まぁ、どうでもいいんだけれど。
どうせ死んだら全部なくなる。
「死」にしか完全な救いはない。「無」が全てだとは思っている。
私はそういう人だ。

宗教は嫌いだから宗教の話をしているわけではないのだけれど、こういう話になると宗教じみてくるからやめよう。

 

とにかく。

年末である。

良いお年を。