いきなり正論を突かれてやる気を削がれた話
お盆休み中友人と食事をした。
友人は最近楽しい出来事があったらしく、私は聞き役に徹していた。
仕事も趣味も充実しているようだった。
彼は話し始めると一方的になるので、私は相槌を入れながら聞いていた。
私自身が人に話したいと思うようなネタを持っていないので聞いていること自体は苦ではない。
友人の趣味の話がひと段落し、少々間ができたので何か話が広がるか?
と、一石投じる意味を込めて発言してみた。
「最近趣味という趣味がほとんどなくてさ、また久々にカメラでも初めて見ようかと思ったりしている。」と。
「何か撮りたいものでもあるの?カメラやっている人ってさ、撮りたいものありきで活動しているじゃんね。好きなもの、例えば電車とか、旅とか、人とか、そういう対象が先にあってカメラで撮るわけじゃんね。カメラが好き・・・というかカメラで何かを撮ることが好きなだけで、その好きはあるの?」
と、半ば語気強めで説教じみた感じで言われた。
軽い気持ちで会話が続けば良いかと思ってした発言に対して、ど直球の正論をストライクゾーンに豪速球で突っ込まれた。
なぜ私が叱られなければならないのかと若干イライラした。
確かに正論なのだ。
カメラは道具でしかない。
撮りたいもの、残したいもの、それにたいする情熱があってカメラが生きる。
撮ることが楽しくなる。
そういうものなのだ。
かつて私がカメラにハマっている頃は楽しかった。
どうやって撮ろう?どの角度から撮ろう?どういう色合いに仕上げよう?
とかいろいろ考えながら綺麗に残すことが楽しかった。
出かけ先で景色を残すことも楽しかった。
なんらかの情熱がそこにはあった。
今の私はどうかというと、正直そこまでの情熱はない。
記録としての写真が取れれば十分なので基本的にはスマホで十分だし、どこか観光地へ行く時にカメアをもって出かけるという程度で十分なのだ。
そう、そこまで今カメラに対しての情熱はない。
撮りたいものがない。感情を揺さぶられるものがない。
これ楽しいじゃん!ってならない。
なんで「またやってみようかな?」という発言をしたかというと、ハマっていた時のような感情を体験してみたいからだった。
また始めたら何か感じるものはあるのかな?と。
ちょっと新しい機材を買ってみたら気分も変わって楽しめないかな?と。
その程度の軽い気持ちだった。
趣味としてのカメラなのだから、そのくらいの軽い気持ちで始めるパターンもあって良いのだと思う。
本人が楽しめるのならばスタートがどういう状態かなんて関係のないことだろう。
しかし「情熱」的なものを引き合いに出されると、私には存在していないのでやる気なんていうものは一気になくなる。
正直、カメラを手にしようかなという今の気分は消えた。
どうでもいいわ、もう。
それにしても、話のネタで軽い気持ちで「ちょっとやってみようなか?」と持ち出した程度なのに、それすらも真面目に、「こうあるべきだ」「こうするべきだ」のような返事が帰ってくる友人しか、私にはいないのだろうか?
語気も強目で若干説教じみた感じで言われたのが本当に嫌だった。
私はそんなに目に付くか?鼻に付くか?気に入らないか?
イラストのことをテーマにして会話した時も然り。
写真のことをテーマにして会話した時も然り。
これでは私は私のことを何も話せなくなってしまう。
私の不遇さを話すか?楽しくないだろう?話す必要もないだろう。
それはブログだけで十分だ。
徐々に友達が友達では無くなっていくように感じる。
これが「友達が減っていき、最後には自分しか残らない」現象なのだろうか。
向こうはまだ友達だと思っているのだろうか?
もう誰とも会いたく無くなっていく。
そもそも私の周りの友達というのは厳しい意見を言う感じの人々しかいなかったのだっけ?
いや、そういう人たちが残ったのか?
私自身が厳しい人間だからだろうか?
もうちょっと息を抜いた感じで気楽に生きていくことすら許されないのだろうか?
「やんわりと」をテーマに生きようとすると「縛り」を求められているような。
そんな感覚に陥る。
いや、まぁ、周りの人の言うことなんか気にせずやってしまえばいいのかもしれないのだけれど。
今回はだめだ。もうやる気でない。
またしばらく私のカメラは埃まみれになっていることだろう。