人生につまづきながら生き方や働き方を模索していくブログ

どうにも社会人として会社に馴染めないとか、生きるのがちょっと疲れちゃってたりとか、生き方とか働き方に疑問を持ってたりとか、なんかそんな事とかそうじゃない事とかをのんびり書いていくブログ。

同じ努力を他人と同じだけしても同じものになれるわけではない不条理感

分かりきっていることだし、今更こんなことを書く必要はないのかもしれないけれども、敢えて書いてみようと思う。

「他人と全く同じ努力をしたところで同じものに成れるわけではない」

ということを。

生まれも育ちも違うわけだし、体型や筋肉のつき方も違うわけだし、頭の回転だって違うわけだし、そもそも何もかもが遺伝子レベルで違うので「同じ努力」という考え方自体が間違いの始まりなのだけれども。




「夢」があったとしよう。
その夢を叶えるためには「努力」という頑張りが必要になってくる。
毎日、毎日夢に向かってコツコツと努力を積み重ねていったとしよう。
その先に待ち受ける微かな成功の門を開くためにコツコツ進めていったとしよう。
途中で同じ目標に向かって歩む仲間に出会うかもしれない。
仲間に出会うこともなく独りで進む道なのかもしれない。

そして「努力」の名の下に頑張ってはみたものの、その夢は儚く散った。
なんてことはよくある話。
「私の方があの子より頑張ったのに!」
「俺の方があいつより才能あるのに!!」
なんて嘆きのセリフも聞こえてきそうだ。
本当にこういうことはよくある話なのだ。

そう、「努力しても報われない」。
必然的に「運」すらも味方につけないと努力だけではなんともらならいことだってある。
同じだけ頑張った。同じ以上に頑張った。
俺の方がすごい。私の方がすごい。
それでも夢は叶わない。
世の中そういうものである。

ほんの一握りの「運」を引き寄せた人がふっと頭一つ抜け出す世界だったりする。
本当にひどい世界である。

しかしそういう感じで世の中が成り立っているということを早いうちで理解しておけば挫折感を味わったとしても立ち直ることが早いのかもしれない。

一回の夢の挫折で挫けてしまって次へのステップに動けなくなることほど時間の浪費になってしまうことはない。
経験はバネにしないといけなない。

私のように「才能がなかったから」「努力が足りなかったから」「運がなかったから」といつまでもウダウダといじけていてしまっては人生無駄にしてしまうよ?

私も若い頃は夢に向かっていたのさ。
今はもう夢だとは思わず、趣味レベルにして楽しんでいるんだけれどね。
意外にその方が心にストレスがなくて、「つらい努力」というより「楽しめる時間」という認識に変わって、もしかするとこの先何かいいことあるかもしれないなって思うようにしているよ。

 

 

「あんなに頑張ったのに」は通用しない

なりたいものに成れなかった時に思う第一声。
「あんなに頑張ったのに」
「あんなに」とはどれほどのことだろうか。本人の価値基準における「あんなに」であって他の人にとっての「あんなに」とは違うかもしれない。物差しはあくまでも自分基準のあんなに。

寝る間も惜しんで頑張ったか?
テレビを見る時間も削って頑張ったか?
漫画を読む時間も削って頑張ったか?
ご飯の時間も削って頑張ったか?
彼女(彼氏)も作らずに頑張ったか?
どうなんでしょう?それなりに楽しみもしたんじゃないですか?

私の場合は異性関係は絶っていたけれど、アニメ・ゲーム・マンガと、いわゆるオタク系の趣味は捨てきることができずそこだけは譲れなかった楽しみだった。
テレビ番組はそもそもそんなに興味ないのでテレビはなくても生活できるけれども。

そして頑張れる時は頑張れるんだけれど、どうしても長時間集中することができなくて途中で飽きちゃったり、頑張れない日も出てきたりして「あんなに」じゃなくて「そこそこ」だったのかな?なんて思ってしまうこともある。
「好き」でやっていたはずなのに「長時間できない」から「好きじゃなかったのかもしれない」という結論付けをしてしまったりもしていた。

「好き」だからといって「長時間」没頭できる人と、そうでない人がいるのはもう遺伝子レベルでの性格の違いなのだ。
頑張れない自分を受け入れることが出来ないから、頑張れない自分を責め続けて、自分のことが嫌いになって、好きだったことも嫌いになって何も手がつかなくなって、生きる気力を失って・・・という悪循環に陥るのだ。
無理に頑張らなくていい。それが「好き」という事実だけ今後は大切にしていければいいのだと少し前に気がついた。
もう無理に頑張らない。無理に頑張ると心がとても貧しいことになることがわかったから。
それに気がついたら、好きだったことが楽しめるようになってきて、なんだか嬉しかった。

そう「あんなに」と自分が思って頑張っていたとしても夢が叶わない時は一向に叶わない。
叶わないこともあるけれど、人生を投げ出してしまうほどではないよって今なら言えるかもしれない。まだちょっと弱いけれど。

 

 

 

あの人よりも私の方が努力しているのになんで!?

なんでだろうね。
努力だけでは報われない世界は運だって必要なんだよね。
「私を見つけて!!」って叫び続けなければ埋もれたままなんだよね。
「見つけて」じゃなくて「見せつけてやるぜ!!」くらいじゃないと運は寄ってこないんだけれどね。
攻め続ける強気の姿勢が大事。いつまでたっても受け身のままで待っているだけだとね何も変わらないことが多いよ。
変わらなかったもん。そう、受け身だったのは私のことです。

 

 

 

私には結局才能がなかったんだって諦めて終わる

同じ夢に向かっている人、夢を掴んだ人の作品とね、自分の作品を見比べるんだよ。
そうするとね、自分の作品がものすごく下手に感じてしまってね。なんの魅力もないなって感じてしまってね。
「あ、自分って才能ないんだ」ってものすごく落ち込む。
落ち込んで、またちょっとだけ頑張って、また他人と比べてまた落ち込む。
それを繰り返すから右肩下がりで才能のなさを突きつけられ続けて心が折れる
まだやれる!あ、でもダメかも。。。まだやれる!でもダメかも。。。
1歩進んで5歩下がる。みたいな?

無駄な時間を過ごしてしまった気がするよ。
こんなことしてて楽しかったの??って。
それだけそれに成りたかったのかもしれないけれど。
夢に執着していただけなのかもしれないけれど。
楽しくないならやめてしまっても良かったんじゃないの?って自分に言いたかったけれど、言っていたけれど、それでも止めることが出来なかった。
自分を傷つけて追い込んでそれでも執着していた。
辛かった。苦しかった。
才能がないけれど頑張るって。
全然才能がないわけじゃなくて、中途半端にあったような感じだから、そこに希望を見てしまうんだろうね。それでやめられない。絶対的な才能じゃないことが苦しかったのだと思う。

諦めて次の世界を探したほうが楽しいことだってある。
それも事実。才能がなかったから諦めて終わろう。
違う才能と出会えるかもしれない。

ただ残念ながら私はしぶとい。
「才能のせいにして諦めて終わる」って思っていたけれど、趣味レベルにダウングレードはしたもののまだ続けている。夢ではないけれど、楽しみながらめっちゃ匍匐前進してる。
終わったつもりにしてるけれど、諦めきれずに身をよじりながら進んでいる。
どMか、俺。
あわよくばのラッキースケベ、いや、ラッキードリームを狙っているのかもしれない。

 

努力しても報われないけれど何かしら得るものはある

いちおうそれを「夢」ととらえて生き続けてきて17年ほどになるわけだけれども。
・・・え?17年!?計算してびっくりしたわ。自分が。
もうちょっとで成人してしまうわ。
あー、夢の中に居るから現実で大人になれないんだなっつーのもあるかもね。

精神的に子供のままだとしてもだよ、小さくコツコツ以外と続けてきてはいるみたいなんですよ。
それでね、もしかするともっと続けていたらどうにかなるかもしれないこともあるって思ってしまうこともあるんですよ。子供だから。諦めが悪いから。
「才能を発揮するまでにかかる努力の時間の差」と「運」という抗うことのできない壁に立ち向かうことこそが人生のテーマなのかもしれないとカッコイイことも言ってみたりするわけですよ。(カッコイイか?)
そして圧倒的な才能の差を10歳も年下の子に見せつけられちゃったりすることもあるけれどさ。(で、凹む)


こういう人生もある意味特殊かもなって。
普通の人生じゃないけれどそれでもいいかなって。
生涯年収はめっちゃ少なくて、普通の家庭なんていうものも持てなくて、幸せとは程遠い人生を歩んでいるのかもしれないけれど、その特殊さを楽しんでしまえるようになったら強いかもしれないな。
「お前には真似できないだろ?この不安定さが怖いだろ?」って。
そう、私はある意味強いのかもしれないな。